いついて、上方へ修行に上り候《そうろう》、雪踏《せった》を穿《は》き候まま、旅支度も致さず参りしこと故、相なるべくはお通し下され候様に、と言ったら、番頭《ばんがしら》らしきが言うには、御大法にて手形なき者は通さず、しかしお手前の仰せの如く、御修行とあれば余儀なき故、お通し申すべし、以来はお心得なさるべしと言った故、かたじけないとて、それから関所を越して休んでいたら、後より来た商人が言いおるには、いま私が関所を通りましたが、おまえ様の噂《うわさ》をしてござったが、いま通った侍は飛脚でもないが、藩中でもなし、何だろうとて噂をしていましたと言うから、そのはずだわ、おれは殿様だからと言ってやった。

[#底本では1字あき]山中で日が暮れて宿引女が泊れとてぬかしたが、とうとうがまんで三島まで着いたら、四里が間、二十九日の日だから、まっくらがりで難儀した。雪踏を脱いで腰へはさみ、ようよう、夜九ツ時分、三島へ来て、宿へかかって戸を叩き、泊めてくれろと言ったら、
『当宿は韮山様《にらやまさま》がお触れで、ひとり旅は泊めぬ』
と言うから、問屋場へ寄って、起して宿を頼んだら、そいつが言いおるには、
『問屋が公儀のお触れは破れぬ、差図はできぬ』
ときめるまま、そこで、おれが言うには、
『海道筋三島宿にては、水戸の播磨守《はりまのかみ》が家来は泊めぬか、おれは御用の儀が有り、遠州雨の宮へ御きかんの便りに行くのだが、仕方がないから、これより引返して、道中奉行へ屋敷より掛合う故、それまでは御用物は問屋へ預け参るから大切にしろ』
とて、稽古道具を障子越しに投げ込んだ。そうすると、役人共が肝をつぶし、起きて出おって、土に手をつきおった。
『播磨様とは存ぜず不調法、恐れ入った』
といろいろあやまるから、図に乗って、
『荷物は預けるから、急度《きっと》、受取をよこせ』
と言ったら、困りおって、ほかに二三人も出て這《は》いつくばり、いかようにも致しますから、まずまず宿屋へ行って少しのうち休足してろと言うから、ようよう案内と言ったら、脇本陣へ上げおって、だんだん不調法のわけをわびおり、飯を出したら、役人が重ねて、当宿の宿役人が残らずしくじるから、なにぶんにも勘弁しろと言うから、腹が癒《い》えたゆえゆるしてやった。そうすると酒肴を出して、馳走をしおった。その時、書附をよこせと言ったら、それによってそれも出すまいと言った故、またまたひっくり返してやったら、金を一両二分出して、またまたあやまりおった故、金が思いよらず取れる故、済ましてやった。そのうちに夜が明けかかったから、寝ずに三島を立ったら、道中籠を出したから、先の宿まで寝て行った。そのはずだ、稽古道具へ、箱根を越し、水戸という小札を書いて差して置いたものだから、うまくいったのだ。
おれが思うには、これからは日本国を歩いて何ぞあったらきりじにをしようと覚悟して出たから何も怖いことはなかった――」
[#ここで字下げ終わり]

 ここまで読んで神尾主膳が感じたことは、個人的の興味ではなく、この破格な行状記の後ろに動いている時代の空気というものでありました。
 江戸徳川氏の末期の、空気のどろどろになって、どうにも動きの取れない停滞が、この勝の親父を産んだのだ。いや、勝の親父だけではない、自分の如きは、まさしく、そのどろどろの沼の中の産物の指折りでないとは言えない、そういうことを神尾主膳が自覚せしめられました。
 江戸末期の停滞が産んだ、我々旗本浪人のうちの不良に二種類がある、それは硬派の不良と、軟派の不良だ。
 その勝の親父の如きは、当然、硬派の不良に属してるが、自分の如きは、これに比べれば、いくらか軟派に傾いているかも知れないが、自分より以下の軟派はまだまだある。いわば、硬軟両面を兼ねた自分ではある、ということに神尾が分類をしてみました。
 自分の放埒《ほうらつ》を時代になすりつけるわけではないが、まあ、この徳川末期の時代というものを一渡り見てみるがいい、おれは三千石だし、勝のおやじは四十俵だ。格式に於ては天地ほどの差があるけれども、時代を同じうした徳川幕下の士ということに於ては少しも変った存在ではない。
 泰平二百何十年、もう、この江戸文化も熟しに熟しきってしまっている。三千石の家に生れたおれも、四十俵の高をついだ勝のおやじも、行きつまっているということに於ては全く選ぶところはない。もう、徳川の天下では、三千石は三千石より生きようはない、四十俵は四十俵のほかに動きがとれないことになっている。三千石が立行かなければ、四十俵も立行かない。おれは三千石の自暴《やけ》、勝は四十俵の自暴だ、自暴に於ては優《まさ》り劣りはないのだ。
 およそこの時代に於ては、身分の高下、禄高の大小を問わず、飛躍ということがどの方面にも許されない。飛
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