しくかぜを引いて寝ているから、それなりにして置いた。或る日少し気分がいいから、寒稽古に出たら、小林も来ていて、勝様一本願いたいとぬかすから、見る通り久しく不快で、今に月代《さかやき》も剃らずいるくらいだが、せっかくのことだから一ぽん遣《つか》いましょうと言って遣ったが、まず二本つづけて勝ったら、小林が組みついたから腰車にかけて投げてやると、仰のけに倒れたから、腰を足にておさえて咽喉《のど》を突いてやった。その時、小林が起き上り、面《めん》を取って、おれに言いおるには、侍を土足にかけて済むか済まぬかとぬかすから、これは貴公の言葉にも似ぬ言い事かな、最初のたちあいに、未熟ゆえ指図してくれろと御申し故、侍の組打ちは勝つと斯様《かよう》のものだと仕形をして見せたのだ、言い分はあるまいと言ったが、御尤《ごもっと》も、一声もござりませぬと言いおった。それから、おれを暗討《やみう》ちにするとて、つけおったが、時々油断を見ては、夜道にてすっぱ[#「すっぱ」に傍点]抜きをしてきりおったが、時々、羽織など少しずつ切ったが、傷は附けられたことはなかった。それからいろいろしおったが、おれも気をつけていた故に、或る時、暮に親類に金を借りに行った時に、道の横町より小林が酒をくらった勢いで、おれが通ると、いきなり、出ばなの先へ刀を抜いてつき出した、昼だから往来の人も見ている故、その時おれが、わざとふところ手をしていて、白昼になまくらを抜いてどうすると言ったら、小林がこの刀を買いましたが、切れるか切れぬか見てくれろと言うからよく見て骨ぐらいは切れるだろうと言ったら、鞘《さや》へ納めて別れたが、人が大勢立ちどまって見ていた。古今のめっぽうけい[#「めっぽうけい」に傍点]者だ。

十八の歳に身代を持って兄の庭の内へ普請をして引移った。その時、兄から三百両ばかりの証文と家作代を家見にくれた、親父よりは家財の道具を一通り貰ったから、無借になって嬉しかった。それからいろいろの居候者が多く来おったから、いくらも置いたから借金が出来たよ。

十九の年、正月稽古始に、男谷道場で、東間陣助と平川右金吾と大喧嘩をして、たがいに刀を持って稽古場へ出てさわいだが、その時もおれが引分けて、ようよう和睦させた。

この年より諸方の剣術遣いを大勢、子分のようにして諸国へ出したが、みんなおれが弟子だと言って歩く故、名が広くなってきた。それから本所中の、いい頭をしているのらくら[#「のらくら」に傍点]者を残らず置いて、みんなおれが差図に従えた故、こわいものはなくなったが、それには金もいるし、附合いが張ったから、たいそう借金が出来た。

また他流試合を商売のようにして、毎晩、喧嘩にみんなを連れて歩いた。ある時、平山孝蔵という先生へも行って、いつもいつも和漢の英雄の咄《はなし》を聞いては、みんなをしこなしていた。それから、いろいろ馬鹿ばかりしていたから、身上が悪くなってきて、借金がふえるばかり、仕方がないから、出来ない相談に、むやみに借金をしていたが、二十一の年には、一文もなくなって仕様がなかったから、差料の刀は、おわりや久米右衛門という道具屋より買った盛光の刀、四十一両で買った故、それを売ろうかと思ったが、それも惜しいからよしたが、あいたいに行くにも着たままになったから、気休めに吉原へ行って、翌日、車坂の井上の稽古場へ行き、剣術の道具を一組借りて、直ちに東海道へかけ出した」
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 またしても駈落《かけおち》かと、読んで神尾が苦笑しました。
「なるほど、乞食は三日すれば忘れないというが、性《しょう》についたな」

         五十九

 さてこれからが、勝小吉再度の駈落物語となる。
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「その日は、むこくに歩いて、藤沢へ泊って、朝七ツ前に立って、小田原へ行って、先年世話になっていたうちの喜平次を尋ねて行ったが、喜平次も、乞食がさむらいに化けて来たものだから初めは不審した。喜平次のうちを出た亀と言ったら、ようやく思い出して、いろいろ酒など振舞ったが三百文盗んだことを言い出して、金を二分二朱やったほかに酒代《さかて》を二朱出して、以前、船へ一しょに乗った野郎共を呼んで酒を呑まして、今は剣術遣いになったことをはなして笑ったら、みんなが肝をつぶしていた。今晩はぜひとも泊れと言ったが、江戸より追手が来るだろうと思ったから、早々別れてそこを立って箱根へかかった。
喜平次とほか三人ばかり三枚橋まで送って来たが、そこよりかえして、ようよう関所へかかったが、手形がないから、関所の縁側へ行って、剣術修行に出でし由申して、お関所を通して下さいと言ったら、手形を見せろというから、そこでおれが言うには、御覧の通り江戸を歩行通りのなりゆえ、手形は心づかず、稽古先より計らず思
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