人物がある。あるには相違ないが、出頭の機会がない」
「今のところ誰々だ、旗本で目ざされている人らしい人は。人物らしい臭いのする奴は。少なくとも落日の徳川家を背負って立とうと、人も許し、自らも許すような奴が、一人や二人はありそうなものだなあ」
神尾は投げ出したように、自暴的に言うけれども、今日のは自暴《やけ》の裏に、強烈な意地のようなものがひらめくを感ずる。
こういう問いをかけられて、押しかけて来た二人の悪食家《あくじきか》も、おのずから切迫の真剣味につりこまれて、
「そうさなあ――今の旗本で、同じ徳川でも譜代大名は別物として、直参のうちで、人らしい人、人も許し、我も許そうというほどのものは――この時勢を重くとも軽くとも背負って立とうというほどの人物は――まあ、小栗又一《おぐりまたいち》か勝麟太郎、この二人あたりがそれだろうなあ」
「ナニ、小栗又一と、勝麟太郎、二人とも、それほどの人物か――」
「まあ、世間の評判はもっぱらそこにあるな。ところでこの二人がまた背中合せだから、やりきれないよ」
「どう背中合せだ」
「小栗は勝を好まず、勝は小栗に服しない、小栗は保守で、勝は進取――性格と主義がまるっきり違っている」
「そいつは困る、せっかく、なけなしの人材が二人ともに背中合せでは、さし引きマイナスになってしまう」
「悪い時には悪いもので、困ったものさ」
「で、小栗と、勝と、どっちが上だ、器量の恵まれた方に勢力を統制させずば、大事は托し難かろう」
「さあ、器量という点になってみると、我等には何とも言えない――おのおの、一長一短があってな」
「小栗はだいたい心得ているよ、あれは家柄がいい、ああいう家に生れた奴に、性質の悪い奴はないが、勝というのはいったい何だい、よく勝麟勝麟の名を聞くが、そんな名前は我々には何とも響かん――どんな家に生れた、どんな男なのだい」
「そりゃ、家柄で言えば小栗とは比較にならん、小栗は東照権現以来の名家だが、勝などは四十俵の小身、我々仲間に於ても存在さえ認められなかったのだが――近頃めきめきと頭角を上げて来た、事実、稀代の才物ではあるらしい」
「知りたいね、勝という男の素姓来歴を」
「待ち給え」
悪食家の一人が、この時、首を傾けて、
「勝は四十俵の小普請《こぶしん》、石川右近の組下だが、勝の父は男谷《おたに》から養子に来たのだ」
「男谷の……講武所の剣術方の男谷精一郎(下総守)か」
「左様――彼、勝麟の父が、精一郎の弟になる。その親父《おやじ》について思い当ったよ、ほんとうに、それこそ箸にも棒にもかからぬ代物《しろもの》でな、それが晩年、何か発心して、いま君がやっているように、自叙伝を書いた、その写しを僕が持っているが、これはまた稀代な読物だ、こんな面白い本を今まで読んだことがない。面白いものを小説の稗史《はいし》のと人が言うけれど、あれは本来こしらえもの、大人君子の興味に値するほどのものではないが、勝のおやじの自叙伝に至ると、真実を素裸《すっぱだか》に書いて、そうして、あらゆる小説稗史よりも面白い、あの父にして、この子有りかな、古今無類、天下不思議の書物だ、参考のために君に貸すから読んで見給え、家に帰って、すぐに届けるよ、『夢酔独言』というのだ、実に何とも名状すべからざる奇書だ、あれを読むと、勝麟その人もわかる」
悪食が口を極めて、推賞か示唆かを試むるものだから、神尾も、
「では、読ましてくれ」
と言わざるを得ませんでした。
五十三
その翌日、珍しくもよく約束を踏んで、悪食が、昨日約束の書物を届けてくれました。
これが、当時評判の勝麟太郎の父親の自叙伝であるそうな。
徳川の末世を背負って立つ男は、小栗か勝だろうと、かりそめにまでうたわれるくらいの人間と聞いて、これも珍しく神尾が勝のことを注意する気になりました。
受けて見ると、その書の標題は前出の如く「夢酔独言」という。
巻頭に書き添えた勝家の系図というのを見ると、神尾が軽蔑の気持になって、
「なあんだ、勝の先祖、元は江州坂田郡勝村の人、今川家に仕えて塩見坂に戦死、市郎左衛門に至り徳川氏に仕えて天正三年岡崎に移る――十八年江戸に移る、家禄知行蔵米合わせて四十一石、か」
家禄知行蔵米合わせて四十一石、というところに神尾が憫笑《びんしょう》を浮べました。
特に軽蔑したわけではあるまいが、そういう時に、冷笑が思わず鼻の先へ出るのがこの男の癖です。
神尾の家柄は三千石でした。
「万治三庚子十二月卒百五歳――ふーむ」
四十一石の高は軽きに過ぎるが、百五歳は多きに過ぎる。四十一石の小身は稀なりとはしないが、百五歳の長生はザラにあるものではない、と感心しました。
その市郎左衛門時直から七代目で、左衛門太郎|惟寅《これとら》という
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