》を二人の駕丁《かごや》に釣らせて、粛々として七条油小路の現場に出動したのは、慶応三年十一月十一日の夜は深く、月光《げっこう》晧々《こうこう》として昼を欺くばかりの空でありました。
五十二
神尾主膳が閑居してなす善か不善か知らないが、その楽しむところのものに書道がある、とは前に書きました。また、彼が何の発心《ほっしん》か、近ごろになって著述の筆をとりはじめて、自叙伝めいたものを書き出したということも前に書きました。
それは、ほんの筆のすさびに過ぎなかったのを、この数日、非常なる熱心を以て、机に向って筆を走らせ出しました。今までは道楽としての著述であるが、最近は少なくとも生命を打込んでの筆の精進です。書きつつあるところに、何かしら憂憤の情を発して、我ながら激昂することもあれば、長歎息することもあるし、それほど丹精を打込んで書くからは、彼はこの書を名残《なご》りとし、生前の遺稿として、記念にとどめたいほどの意気組みが、ありありと見るべきものです。
主膳のこのごろは、たしかに激するところがあるのです。著述の興味が進むということも、半ばその激情にかられて筆を進めるからです。かくて、ともかくも、神尾主膳が殿様芸ではなく、不朽――というほどでなくとも、著作の真意義に触れるような心の行き方に進みつつあるのも、不思議の一つでないということはありません。
根岸の三ツ眼屋敷で、今日も、その著述の筆に耽《ふけ》っている。彼の著作は一種の生立ちの記ですが、書出しは祖先の三河時代の功業から起っている。そこに多くの自負があり、懐古が現われて来るのですが、同時に自らの現状との比較心が起って来ると、いよいよ平らかならざるものがある。それが激し来《きた》って、ついつい筆端に油の乗るようになる。さらさらと筆を走らせて、雁皮薄葉《がんぴうすよう》の何枚かを書きすまして、ホッと一息入れているところへ訪《おとな》うものがありました。
シルクのお絹でもなく、芸娼院の鐚《びた》でもないが、神尾のところへ来るくらいのもので、左様に賢人君子ばかりは来ない。いずれも先日の悪食会《あくじきかい》の同人でした。
「何を書いているのだ」
「出鱈目《でたらめ》の思い出日記を書いているのだ」
「つれづれなるままに、日ぐらし硯《すずり》というわけかな」
「いや、閑《ひま》にまかせて自分の一代記を書いてみているところだ、今は先祖の巻を書き終えて、次は父の巻にうつろうとしているところだ、第三冊が母の巻、それから自分の放蕩三昧《ほうとうざんまい》の巻――自慢にもなるまいが、まあ一種の懺悔《ざんげ》かね」
「せっかく大いにやり給え」
「懺悔にはまだ早かろうがな、善悪ともに書き残して置いてみることは悪くない――閑のある時分に、興の乗った時に限ってやって置くことさ、書いているうちに興味が出てくるよ。自分も早く学者になって置けばよかった、学問をして置けば、新井君美《あらいきみよし》ぐらいにはなれたろう、戯作《げさく》をやらせれば馬琴はトニカク、柳亭ぐらいはやれる筆を持っていたのを、今まで自覚していなかった、我ながら惜しいものだ。時に……」
神尾主膳は、筆を筆架に置いて、投げ出すように、悪食家に向って言いました。
「徳川の天下も、いよいよ駄目だそうだな」
「は、は、は、おかしくもない、今ごろそんなたわごとを言い出すのは、君ぐらいなものだろう」
「徳川の天下が亡びた時は、日本の政治はどうなるのだ」
「そんなことはわからん、そういうことは永井玄蕃《ながいげんば》のところへでも行って聞き給え」
「まあ、君たちの見るところを正直に話して見給え」
「十目の見るところ――言わぬが花だなあ、力めば時勢を知らないと言われるし、くさ[#「くさ」に傍点]せば主家を誹《そし》るに似たり」
「いよいよ駄目かい」
「匙《さじ》を投げるのはまだ早かろう」
「いや、実はおれも、徳川の禄を食《は》んで三百年来の家に生れた身であってみると、それを対岸の火事のようには見ていられない、今日まで自分本位で生きて来たが、とにかく、一朝主家興亡の秋《とき》ということになってみると、別に考えなけりゃならん」
「考えてどうなるのだ」
「どうかしなけりゃなるまい」
「どうしようがあるのだ、要するに徳川をこんなに弱くしたのも、君のような――君一人に背負わせるのも気の毒の至り、おたがいのような享楽主義者が続々と出たその結果と見なけりゃなるまい」
「それを言われると、おれも真剣に考えたくなる――人物がないなあ」
「人物がないよ――今の徳川には人物がないのに、西南のやつらにはウンとある、足軽小者の方面にまで、切れる奴がウンといる」
「旗本八万騎あって、人物が一人もないのかなあ」
「ないことはない、有る――必ず、隠れたるところには
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