水に入ったんですから、それで女の子が水を呑んでいない――おさむらいの方は、何か別に仕方があったんでござんしょう、そうでなければ疲れてうっとりと来てしまったんでござんしょう、とにかく、どっちも、まだ脈はあるんですぜ」
二人の生命《いのち》にまだ見込みのあるということを、物に慣れた船頭が保証しつつお角さんに報告しました。とにかく、そこで二つの生命は引上げられたわけです。まだ生命としては、どっちのものかわからないながら、水中から船の上へ取上げられて、そこで、心得ある人々に介抱されて、専門家こそ乗合わせていなかったが――道庵先生の如き専門家が居合わせなくてかえって幸い――物に慣れた人から完全に生き返ることを保証されて、何はともあれ安静のところに置くことが養生第一として、船の一室に、無事に納められました。伊太夫は、この二人の遭難者を、わざわざ席を立って見に行こうとはしなかったが、かりそめにも自分の主となった船の中で、二個の生命を収得し得たことを満足としないわけではない。お角さんとしては、実際に立会って、つぶさに二人の者を観察したようですが、その報告はまだ纏《まと》まって伊太夫の前に齎《もたら》されず、また齎される遑《いとま》もなく、取巻子は幾度か同じような場所で、同じような情景を見せられることに奇異の感情を加えただけで、何が何やら煙に巻かれているような事体のうちに夜が明けなんとしました。
夜が明けかかると、今までの霧にこめられた湖面の白さとは性質を異にした、光明を含んだ白さが湖上に流れ出したと見ると、それにつれて、ようよう霧も亡び去って行く。霧の晴れ間を湖水がひたひたと侵略して行って、夜が全く明けた時分に、船がピタリと停った前面を見ると、もう竹生島の全面が行く手にうっすらと、墨絵がにじんだように浮んでおりました。
七
朝まだき、伊太夫の大船が、竹生島の前に船がかりしてまだ動かない先に、一隻の早手《はやて》がありまして、これは東の方から真一文字に朝霧を破って走りついて来ました。走りついたというけれども、伊太夫の船に向って走りついたわけでないことは、その来《きた》るところの方向が全然違っていることでもわかる。たとえば、伊太夫の船が大津を出でたとすれば、この早手は、その反対側の長浜方面から走って来たものであることは確かです。そうして朝霧を破って、なお急調で走って行くくらいですから、昨宵の霧も、昨晩の霧も、同様の整調で破って来たと見なければなりません。
そんならば、同じように、この竹生島めざして舟がかりをするかと見ればそうではなく、霧が破れようが、夜が明けようが、急ピッチは変らない。名にし負う竹生島もよそにして、漕ぎ行くことは矢の如く、その行手は、ちょうど、夜明け前に平面毒竜が盃《さかずき》を追うて流れた方向に向って急ぐのですから、めざすところは湖中の何物でもなく、湖岸のどの地点にかあるのでしょう。
急ピッチで、竹生島の眼前を乗打ちをしながら、さいぜん船がかりをしたばっかりの、伊太夫の大丸船《おおまるぶね》を朝もやの中から横目に睨《にら》んで、この早手の中の一人が言いました、
「あれが百艘《ひゃくそう》のうちの一つなんです、あの船が、木下藤吉郎の制定した百艘船の一つなんです、今はすたりましたが、一時はあの大丸船でなければ、琵琶湖に船はありませんでした、船はあっても、船の貫禄がなかったものです」
こう言って、相対した一方の人に向って説明をしますと、その相対していた一方の人というのが無言で頷《うなず》いているのにつけ加えて、
「竹生島が朝霧の間に浮いて、あの大丸船が一つ船がかりをしている、湖面がかくの如く模糊として、時間と空間とをぼかしておりまする間は、我々も太古の人となるのです、太古といわないまでも、近江朝時代の空気にまで、我々を誘引するのですが、夜が明けると、近頃の琵琶湖はさっぱりいけません、沿岸には地主と農民の葛藤《かっとう》があり、湖中にはカムルチがいたり、塩酸が流れたり……この湖水を掘り割って北陸と瀬戸内海を結びつけたら、舟運の便によって、いくらいくらの貿易の利が附着する、また湖水を埋め立てて、何千|頃《けい》の干潟《ひがた》を作ると何万石の増収がある、そういうことばかり聞かせられた日には、人間の存在は株式会社の社員以上の何ものでもありません。人生はすべからく夢を見ることですな、人生から夢を奪うのは、琵琶湖をすっかり干し上げて、田畠《でんぱた》に仕上げるのと同じことです、少なくとも我々は、今のうちに夢を見て置かなければならないでしょう、まだまだ夜と朝とは、我々を誘《いざの》うて古《いにし》えの夢を見せるに足るの琵琶湖であり得ることを、せめてもの幸いとしなければなりません」
早手は早くも竹生島の前面をかす
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