い、今もなお気が揉めているから、こんなことも口へ出るのだろう。そこでお角さんが、
「心中の片割者なんか、女ひでりの世じゃあるまいし」
お角さんにけし飛ばされても取巻はひるまない。
「ところが、かえって一段と気が揉めましてな、どんなまずい女房も、後家になると色っぽく見えると言いますからなあ、片割となってみますと一層惜しいものでした、あの女子だけはただは置けないと、その当座は正直のところそう思いましたよ。もう、二三人の子供が出来てるんでしょうがねえ、今の御亭主の面が見てやりたいです」
「よけいな心配をしたものです」
お角さんは深く取合わないが、何か一道の魅力がありそうで妙に気が引かれる。
男を殺して、自分だけが生き残った女の尽きせぬ業《ごう》というものが、ほんの行きずりのこの取巻屋をさえ、いまだに引きつけている魅力というものを以てして見ると、その女も、必ずそれからまた罪を作り出しているには相違ない。
さればこそ、三輪の里には業風が吹きそめて、藍玉屋《あいだまや》の金蔵はそれがために生命《いのち》をかけた。そこまでは、この一座の誰でもが知らない。とにかく無事に永らえているとすれば、あの女にも、はや二人三人の子供があってよいはずと、その辺にだけ気を揉んでいる間は無事でしたが、その時に船首の方に当って、急にけたたましい声――
「ござった、ござった、正体が届きましたよ、御推察の通り抱合い心中、それそこに流れついた土左衛門とお土左がそれじゃ」
湖面を見つづけていた船頭の叫びで、水手《かこ》共が、よってたかって眼を皿のようにする。
二間ばかり近く、波の間に、ふわりふわりと浮いては沈み、沈みては浮び来《きた》る物体がある。予備知識がもう十二分に出来ているから、誰もそれを見誤るものはない。しかも、浮きつ沈みつして、上になり下になり流れ漂う物塊は、人間の死骸が二つ、からみ合ってたがいに放さない形になったまま、見た眼では、まだたしかに息が通っている、生温かな肉塊とさえ見えるのが重なり合って、船をめがけて、からまって来るのです。
船頭《せんどう》水夫《かこ》も昂奮したが、船上の一座もすくんだように重くなって、立ち上る元気よりは、怖《こわ》いものを見る心持が鉛のようになる。
六
事態は重くるしかったけれども、手数は極めて簡単でした。船をめがけて漂い来った二つの抱合い死体は完全にこの船の内部に助け上げられました。その報告を綜合してみると……案のごとく男女の抱合い死体であったこと。
ことにお角さんの予言的中して神《しん》の如く、男が年上で、女がズッと年下であったこと。
さりとてお半と長右衛門ほどの相違ではないが、女はお半だとしても、相手がとうてい長右衛門では有り得ない、黒い衣紋《えもん》のうらぶれの三十いくつの浪人風情であったということ。
帯のない女の衣裳形が、水手《かこ》たちの口の端《は》に上らないところを以てして見ると、これは早くもお角さんのたしなみが与《あずか》って救われたものです。お角さんは従容《しょうよう》として言いました、
「これは心中じゃありませんよ」
心中でないとすれば、脅迫か。脅迫とすれば力の問題だから、この小娘がどう間違っても、このおさむらいを脅迫する道理はないから、女の子がこのさむらいに無体な脅迫を受けて、水に逃れようとしたのを、男が追いすがって、我がものにした。
そう解釈してみると、解釈しきれないのは、では、ナゼ男も死んだ、これだけの男ならば、水練がないはずはなし、どう間違っても、この小娘一人を水上に扱い兼ねる代物《しろもの》ではないはずなのに、おぞくも生死を共にして抱合いの形に落ちてしまった。それがわからない。
がやがや騒ぐ水手《かこ》楫取《かじとり》どもをおさえた船頭が、またも何か驚異の叫びを立てて、
「おかしい……二人とも、ちっとも水を呑んでいねえぞ」
と言いました。
水を呑まない溺死人ということは、この際、考うべきことでした。
抱き合って身を投げたものが、浮きつ沈みつ、ここまで漂い来《きた》ることの間に、水を一滴も飲まないということは有り得べきことでない。もし飲んでいないとすれば、それは飲まないのではなく、飲ましめなかったのだ。満々たる水の世界に身を投じて、ともかく、相当の深さまで究《きわ》めたはずのものが、水を飲んでいないということは、あらかじめ水を飲ましめないようにしてあったのか、そうでなければ、舟を出る時に、のみたくも飲めないような生理状態になっていたのか、ということが疑問になるのです。
この疑問は、物に慣れた船頭が直ちに解釈してくれました。
「それは、この娘に水を飲ませまいとして、このおさむらいが当てたんですよ、一当て当身《あてみ》をくれて息の根をとめて、それから
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