も、相手がウンともスンとも言わないので、伊東もあぐねて、もう相手にせず、そのまま橋詰を歩き出して、南側の、以前見た焼跡の板囲いのあたりまで来てしまいました。
そうすると、ようやく長い立話を終った斎藤一が、菊桐御紋章の提灯をたずさえて、ここへ近づいて来て、
「いやどうも、旧友に出逢ったので、つい話が入り組んで……」
申しわけたらたら近づいて来たのですが、山崎はついて来ない。橋上にも、橋詰にも、その姿を見ることができない。ドコへか消えてなくなったようなものです。
四十八
伊東と斎藤とは、そこでまた一緒になって、斎藤が御紋章の提灯をさげて先に立つと、伊東が、
「今そこで、拙者も変な人間に出会ったよ、一時は幽霊かと思ったがな」
「誰にですか」
「全く意外な男だ、それ吉田竜太郎――本名は机竜之助という、先年島原から行方不明になったあの男が、今、ひょっこりと、その橋詰の柳の木の下に立っている」
「机竜之助が――」
「あんまり不思議だから、話しかけてみたが、いっこう返答がない、音無しの構えだ」
「そうですか、それは珍しい人物に逢ったものですな、あの先生、島原であんな物狂いを起してから、トンと行方不明、人の噂《うわさ》では十津川筋で戦死したとも言われていたが、それではまだ生きていたのかな」
「たしかに、あの男だったよ、それから僕がいろいろ話しかけて、遊んでいるなら我々の屯所へ来いと言ったが、やっぱりウンだともツブれたとも言わぬ」
「はーて、それは珍しい、珍しいばかりじゃない、近ごろの掘出し物だ。本来、あの男は芹沢とよく、近藤とはよくない方だから、渡りをつければ、当然こっちへ来るべき男だ。惜しいことをした、今時こんなところにうろついているとすれば、きっと道に迷っているのです。道に迷っているとすれば、我々の屯所へ引こうではありませんか、あれを近藤方へ廻しては一敵国だ」
「僕もそう思って、しきりに誘いをかけてみたのだが、いっこう返事がない――しいてすると、ああいう性格の男だから、かえって事こわしと思って引上げたのだ」
「それは惜しいことです、ああいう人間をこの際、見落すという手はない、もう一ぺん引返して、さがしてみましょう、そうして僕からもひとつ説得を試みてみようではありませんか」
「それもそうだ、では、もう一ぺん引返してみよう、ついそこの橋詰の柳の木の下だよ」
二人は、二三歩あとへ引返した。ほんの踵《きびす》をめぐらさずに、振り返れば済むだけの距離でしたが、振り返って見ると、もう、それらしい人はいずれにも見えない。いつのまにか消えてなくなっている。これより先、田中新兵衛の姿はもはや消えてなくなってしまっている。消えてなくなったのは、山崎譲と、田中新兵衛と、机竜之助だけではない、斎藤一もいつしか、橋上橋畔から姿を消してしまって、橋の真中から再び歩を踏み直しているのは伊東甲子太郎ひとりだけです。この男だけが例の酔歩蹣跚《すいほまんさん》として、全く、いい心持で、踊るが如くに踏んでいるその足許《あしもと》だけは変らない。
四十九
こうして、橋上を闊歩して戻る伊東甲子太郎の胸中は得意を以て満ちておりました。
まず第一は、新撰組との絶縁が円満に通過したことです。新撰組を脱するには死を以てしなければならないのが、無事に解決したということに彼は大きな満足を感じていました。
第二には、これによって幕府方と縁を断って、勤王方の一枚看板を掲げることができたというものである。もはや、眼のある人の目から見れば徳川幕府の時代ではない、勤王或いは別種の新勢力が取って代るべき時代が到来している。その新時代の新勢力の中へ、自分が一方の長として大手を振って合流することができる。勤王は自分の本来の持論であるのだ。
第三には、右の意味に於て、自分には有力なる大藩や公卿のバックがある。それというのは、新撰組の兇暴に辟易《へきえき》しきっているこれらの諸藩閥が、一つには彼の勢力を殺《そ》ぎ、一つにはそれに対抗するために、別に一勢力を欲しがっている。自分がその適任と認められている。すなわち幕府方に近藤あるが如く、勤王方は自分を盛り立てようとする有力者が多い。
それから、今日――から今晩にかけての会見についても、隊の者は不安がったが、自分はタカを括《くく》っていた。近藤といえども、もはや、おれの御機嫌を取らぬことには地位が不利益だということに気がついたのだ。いったい、近藤という男を、世間は兇暴一点張りの男とのみ見る奴が多いが、どうして、彼はなかなか眼さきも利《き》いているし、機を見るに敏な奴だ。不幸にして彼は有力な藩に生れなかったから、独力で今日の地位に驀進《ばくしん》しただけのもので、彼を西南の大藩にでも置けば、勤王方の有力なる
前へ
次へ
全89ページ中66ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング