fter voyage of 63 days.
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 そこで駒井甚三郎は、最初の亜米利加《アメリカ》訪問の五月丸が、僅か百八十|噸《トン》の小船で、欧羅巴から亜米利加へ来るまでに六十三日を費したという概念をたしかめました。それから次に、Wakamiya, American History という一書を取り出して繙《ひもと》いて行くと、改めて翻訳するまでもなく、能文を以て次のように書いてありましたから、そっくりそのまま転読しました。
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「女王ゑりざべすノ治世ニ於テ、英国教会ノ制度礼儀ニ一大改革ヲ施スベキヲ主張スル一宗派起リ、教会ヲ清ムルヲ旨義トスルヨリ、コノ宗徒ハ自ラ称シテ『清教徒《ピユーリタン》』トイヘリ。彼等ハ始ヨリ一宗派ヲ組成スル意志ヲ有セザリキ。彼等ガ牧師ノ一人タルろばとぶらおんノ勧メニ従ヒ、英国教会ヲ離レテソノ同志者トナリケレバ、人呼ンデ、彼等ヲ『分離派』若《もし》クハ『ぶらおん派』トナセリ。教会規定ノ儀礼|如何《いかん》ニ拘ラズ、彼等ハ自ラ欲スルママニ信仰ノ事ヲ実行シタルヨリ、猛烈ナル反対起リタレバ、彼等ノ一隊ハ、ぶるうすたあ及ビろびんそんガ指導ノ下ニ、千六百〇八年、英国北部ノ一寒村タルくろすぴーヨリ逃レテ和蘭《オランダ》ノあむすてるだむニ到リ、直チニらいでんニ転ジテ十一年ヲココニ送リタリキ。
彼等ノ和蘭ニ在《あ》ルヤ、一個ノ別天地ヲ造リテ、総テ英国ノ風俗習慣ヲ保チタレドモ、カクノ如キハ一時ノ寄留者トシテノミ之《これ》ヲ能《よ》クスベクシテ、子孫万世ニハ及ボスベカラズ、彼等ニシテ久シク留ラントセバ、勢ヒ彼等ノ別天地ヲ離レ、本国ヲ忘レ、本国ノ語ヲ忘レ、本国ノ伝説ヲ忘レテ、ソノ子孫ヲ純粋ノ和蘭人ト為サザルベカラズ、コレ彼等ノ耐ヘザル所ナリキ。於是乎《ここにおいてか》千六百十一年、彼等ハ相図リテ移住ノ儀ヲ定メ、永ク英人タルヲ得、且ツ基督《キリスト》教団ノ基礎ヲ据ヱ得ル処ヲ求メタリケルニ、あめりかハ洵《まこと》ニ能ク此等ノ目的ニ副《そ》フモノナリキ。彼等ハカクシテ『倫敦《ロンドン》商会』ヨリ、今ノにうじやしい沿岸ニ殖民地ヲ得タリ。
已《すで》ニシテ千六百二十年七月、ぶるうすたあ、ぶらうどふおーど、及ビまいるす・すたんでつしゆノ三名ハ先発隊トナリテ和蘭ヲ去リ、英国さうざんぷとん港ニ到リ、倫敦ヨリ来《きた》レル一味ノ人ヲ併セテ、八月五日『五月花』号ニ搭ジテあめりかヘト出帆シタリ。天候|悪《あ》シクシテ風波ノ険甚シク、九週間ノ後漸クかつど岬ヘ達スルヲ得タレド、彼等ハコノ地ニ殖民ノ権利ヲ有セザリケレバ、更ニ南ニ航シテ進マントセリ。コノ時暴風進路ヲ遮《さへぎ》リテ船危ク、乃《すなは》チかつど岬ニ還リテソノ付近ノぷろゐんすたんニ難ヲ避ケヌ――今ヤ殖民地ノ位置ヲ選択スルコト何ヨリモ急ニ、探険隊ノ相分レテソノ捜索ニ従事スルコト五週間、或日ノ事数人ヲ載セタルすたんでつしゆノ小艇ハ、じよん・すみすガぷりまうすト命名セシ港ニ入レリ。コレ即チ清教徒ガ新世界上陸ノ基点ニシテ、世界殖民ノ歴史ニ異彩ヲ放テルぷりまうすノ事業モまた茲《ここ》ニ始ル」
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 駒井甚三郎は直参失脚の後に於て、その爵位財産の一切を返還してしまったが、蔵書だけは、ほとんどその全部をこの船に搬入して来ています。それは、この人にとっては、食物以上の食物であるから、まずこれを蓄蔵しなければならぬと共に、いったん読み去ったものも参考として、常に座右に置くの便利且つ必要なるを感じたからです。且つまた、これは売り払うとしても、処分するとしても、誰も引受け手がない。いや、引受け手は大いにあるにしても、読める人がない。駒井の蔵書を読みこなすほどの人は、今の日本には絶対にないと言ってもよいくらいです。非常な高価と苦心とを以て集め来《きた》った駒井の書物も、これを手放すとなると二束三文である。看貫《かんかん》で紙屑に売られる程度を最後の落ちとしなければならぬ。
 たとえ祖先伝来の爵位と家産を失うとも、この書物を失うには忍びないというのが駒井の愛惜《あいじゃく》でした。そうして、それをこの船まで持込んだことに於ては、今でも悔いてはいないのです。
 かくて、この多くの書物を、それからそれと漁《あさ》り読み行くうちに、今までに全く閑却していた方面に、新たに多くの興味を見出して、一度消化されたはずの書物が、再び燦然《さんぜん》たる希望を以ての新たなる頁を自分に展開してくれるもののように見え出して、書物に対する眼が火のように燃え出してきました。
 この間に得た駒井の知識は、Pilgrim Fathers の物語が中心となりました。その書物の中の一つの挿絵を見ると、遥か彼方《かなた》に一艘《いっそう》の船がある。大きさは駒井の鑑識を以てして百噸内外
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