ら、南へ行くと断然心をきめてしまおう、北へ落ちたら、北の進路をつづけることに決定してしまおう、そうまで思って、天上をじっと見つめましたが、一昼夜に地球の全表面に現われる流星現象の総数は、一千万|乃至《ないし》二千万個であろうと言われる流星も、この時に限って、いずれの方向にも、その飛ぶ光を見ることができません。
 やむなく船上を行きつ戻りつして、駒井甚三郎は、またも舳先《へさき》へ来てから、ハッとさせられたのは、事新しいのではない、金椎がやっぱり、まだその場所で祈りを続けている。唖《おし》の如くというけれども、本来唖なのですから、沈黙に加うるに不動の姿勢がまだ続いているのです。
「まだ、祈っている」
 駒井は、今更のように呆《あき》れました。
「こうまで一心に、いったい何を祈っているのだ」
と自問自答してみましたが、何を祈る金椎であろう。この少年は、イエス・キリストのほかのどの神をも拝まないことはよくわかっている。しからば、そのイエス・キリストに向って、この少年は何事を祈り、且つ求めているのか。
 駒井も、祈る人をこれまで多く見ているが、在来の日本人の神仏に祈る人は、こんな祈り方をしない。神道にも、仏教にも、祈祷などになると心血を濺《そそ》ぎ、五体をわななかしめて祈っている。その祈りの力によって、安らかに子を産むこともできる、勝敗を左右することもできるような祈り方をしているが、この少年の祈り方の、それらと全く趣を異にしていることを、駒井も白雲同様にかねてよく認めている。
 金椎の祈りは、祈りでなくて禅に近い、と駒井が評したことがある。無論、その内容に於て言うのでなく、その形体の静坐寂寞の姿が、禅定《ぜんじょう》に入るもののように静かなのを見て評した言葉なのです。しかして今日今晩の祈りは、特にそれらしい静かなものです。
 そうして、今夜に限って、駒井も改めて金椎の祈祷の相《すがた》を後ろから注視しているうちに……
「待て待て、イギリスから最初にアメリカへ渡った船の人も、絶えず祈っていたということだ、なるほど、西洋の人間共は、みんなイエス・キリストを信じていたのだな、日本には八百万《やおよろず》の神があり、仏教には八宗百派があるけれども、あちらではイエス・キリスト一つで統一されていたはずだ、本で読んだ時は、人間が神を拝もうと拝むまいと、こっちの知ったことではないと見過して来たが、今晩になると考えさせられる――最初に欧羅巴《ヨーロッパ》からアメリカに渡った人々の経験に聞いて見ようではないか」
 そこで、駒井の頭の中に甦《よみがえ》って来た過去の読書のうちのある部分が、ゆくりなくも複写の形となって現われて来たのは、亜米利加《アメリカ》植民史の上代の一部――五月丸と名づけられた船の物語でした。
 亜米利加の歴史を読んだ人で、五月丸の船のことを知らぬ者はない。駒井もそれは先刻承知のことでありました。
 五月丸とは、ここで仮りに駒井がつけた呼び名で、五月が May であり、その下に Flower という字がついているから、直訳してみれば「五月花丸」というのが至当だけれども、日本語としては不熟の嫌いがある。「五月雨丸《さみだれまる》」とでもすれば、ぴったりと日本語に納まりもするが、名によって体をかえることはできない。花はどうしても雨とするわけにはゆかない。そこで駒井は、語呂の調子の上から「五月丸」と呼んでみたが、本来は五月花でなければならないなどと、語学上から考えているうちに、そうだ、今日の門出に、あの五月丸の出立こそは、無二の参考史料ではないか。
 そこまで思い来《きた》ると、駒井はむらむらとして、よし! わが当座の梅花心易として、天上に星は飛ばなかった、船中に杖は倒れなかったが、わが前途の方向の暗示は別のところから求められる。船中図書室の中には新大陸の植民史もある。従って、五月丸の物語も出ている。今晩これから図書室へ参入して、その五月丸物語を、もう一応再吟味することによって、この行の決定的断定の資料とするわけにはゆかないか――
 駒井甚三郎は、散漫な頭脳をそこへ統一して、驀然《まっしぐら》に船の図書室へ向って参入してしまいました。
 左様なことを知ろう由もない金椎は、まだ舳《みよし》によって祈っている。

         三十二

 駒井甚三郎は図書館へ入って、さし当り手近な辞書を取って目的のところを繰って見ると、次の如くあるのを発見しました。
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 May Flower, the small ship (180 ton) which brought the Pilgrim Fathers from Sauthampton England to Plymouth, Mass., December 22, 1620, a
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