答えなければならぬ。こちらもハンケチを振るとか、テープを投げるとかしなければならない。ところが我々において送らるべき好意の所在を知ることができないから、
「あの人たちは、あれは何です、誰を送るためにああして集まって、笠を振り、さらばさらばをしているんですかな」
田山白雲が、駒井船長に向って問いかけたのは、船長も最初から同じ思いで迷っているところの理由でした。
「分らないです、あの連中は果して誰を送っているのですか、我々を送っているとすれば、我々の中の誰がその人に当るのか」
その上に、改めてまた甲板の上を見渡すと、こちらでたった一人、七兵衛が笠を振っている。
「やあ、七兵衛|親爺《おやじ》だ」
と船長も、白雲も、こちらで笠を振る七兵衛の方へ振向くと、船上の一同もそのようにして、それからあらためて陸上の送り手と、送らるる七兵衛とを見比べていると、彼方《あちら》の人数の真中に囲まれたデップリした頭領らしい男が、最後に笠を取って打振りました。事の光景が、船中一同に呑込めない、追って後刻、七兵衛から説明されたらわかることに相違ないが、それだけでは、いかにも合点がなり難いことに思っていると、早くもマストの頂上に登りつめていた清澄の茂太郎が、高らかに歌い出しました。
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坊主
坊主
向うにも坊主がいる
七兵衛おやじも坊主になったが
あちらにも一人、坊主首がいる
七兵衛おやじが
数珠をかけているように
あちらのおやじも
坊主首に数珠をかけている
坊主と
坊主が
笠を振り振り
チイチイ
パアパア
[#ここで字下げ終わり]
その歌におしえられて、岸に見送りの人数の真中の頭領株を見ると、なるほど、同じような新発意《しんぼち》の坊主頭で、衣装足ごしらえ、長脇差、すべて俗体であるのに、頭だけを丸めて、これは茂太郎の眼で見なければわからないが、そう言われて見ると、首になにやら数珠《じゅず》のようなものを掛けている。
そこで、送られる人は七兵衛入道であり、見送る人の何だかは分らないにしても、同じく俗体入道を主とする一行であることだけは分りましたけれども、さて、それがいかなる人で、何故に七兵衛が見送られ、七兵衛を見送らなければならないか、そのことはまだ船中の誰にも分っていません。
しかし、その見送りの中央の頭領株の入道が、仏兵助親分であり、それを取巻くのが、その界隈の顔役であることは、底を割っておいてもいいでしょう。従って、これから推察してみると、船の物資の補給が、駒井船長を驚惑せしむるほどに迅速且つ豊かであったという理由もほぼ読めるのです。
すなわち、仏兵助親分の顔を以てして、附近の顔役の総動員によっての、隠れたる任侠であったということが、その時は分らなくても、後刻に至って分らないはずはありますまい。
三十
怱忙《そうぼう》のうちにも無名丸は、船出としての喜びと希望とを以て、釜石の港から出帆して、再び大海原に現われました。
船長としての駒井には、遠大なる理想もあれば、同時に重大なる責任もあるのであります。その理想と責任とは、船の中で、自分のみが知る希望であり、自分のみが味わう恵みである。辛《かろ》うじてお松だけが、ややその胸中を知るのみで、田山白雲といえども、駒井の心事はよくわからない。
船の乗組は、船の針路に対して、盲従というよりは無知識でありまして、一にも二にも駒井船長を信頼しているのですが、その絶対的信頼を置かれる駒井船長そのものが、船の前途に於て、いまだに迷うているものがあるのです。実際、北せんか、南せんかという最も基本的な羅針の標準に、船長その人が迷っているのだから不思議です。
大海原へ出て見れば、東西南北という観念はおのずから消滅してしまうようなものの、駒井の心の悩みは解消しない。他の乗組のすべては、地理と航海に無知識であるが故に、安心している。駒井に至っては、知識が有り過ぎるために不安がある。他の乗組のすべては、船と船長に絶対信任を置いているが故に安泰だが、駒井自身は、船と人との将来に責任を感ずること大なるだけに休養がない。
今晩も駒井は、衆の熟眠を見すまして、ただ一人、甲板の上をそぞろ歩きをして夜気に打たれつつ、深き思いに耽《ふけ》っているのであります。
世が世ならば、この船を自分の思うままに大手を振って、いずれのところへでも廻航するが、今は世を忍ぶ身の上で、公然たる通航の自由を持っていない。船の籍を直轄に置くことがいけなければ、せめて、仙台その他の有力な藩の持船としてでも置けば、そこには若干の便宜も有り得たに相違ないが、自分の船は、ドコまでも自分の船だという駒井の自信が、いかなる功利を以てしても、他の隷属とすることを許さない。無名丸は、同時に無籍丸であって、その登録すべき国
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