その冥路《よみじ》のさわりとやらになるではありませんか」
「もう知らない、もう頼まない、思い直せの、考え直せのと、ゆとりがあるほど、この世に未練があって、死出のあこがれがないのです、そんな水臭い人、もう頼みませぬ」
「聞きわけのない、真さん、たとえ一つでもわたしが姉、目上の言うことは聞かなければなりませぬ」
「いいえ、年がたった一つ上だとて、夫婦《めおと》の固めをした上は、お前は女房で、夫はわたし、女房というものは、身も心も、みんな夫に任せなければなりませぬ、わしが死ぬというからには、お前も死んでくれるのはあたりまえ」
「真さん、お前と、わたしと、いつ夫婦《ふうふ》の固めをしましたか」
「あれ、まだあんなこと、たった今、お前の命をわしにくれると言うたことを、もう忘れて」
「それは違います、真さん、わたしはお前を好きには好きだけれど、わたしの夫と定めた人は別にあることを、お前の方が忘れている、わたしは、定められた許婚《いいなずけ》の人を嫌って、お前といたずらをしたのです」
「それほどお前、いたずらがいやなら、その定められたお方の方へ行っておしまい、その了見なら、少しも一緒に死んでもらいたくない、一人で死にます、お前の真実心を思うから、死ぬ前に一度会いたいと、ここまで来たのは、わたしの愚痴でした」
「それでも、お前一人が死ぬというものを、わたしが見殺しにできましょうか、昔のことを考えてみて下さい、ねえ、真さん」
「それは、わしの方で言うことです、昔のことを考えれば、いまさらお前が、定まった夫の、許婚のと言われた義理ではありますまい」
「ああ言えばこう言う、お前の片意地――もう聞いて上げませぬ、おたがいにいさかいをするのはもうやめましょうね、こっちへいらっしゃい、黙って死んで上げますから」
「わしも、もう恨みつらみは言い飽きた、黙って死のう、黙って死なして、ね、豊さん、わたしの大好きなお豊さん」
「よう言うてくれました、わたしの大好きな大好きな真さん、さあ、こっちへいらっしゃい、一緒に死んで上げるから」
「わしがお前を先に死なそうか、お前がわしを一思いに殺してたもるか」
「後先を言うのが水臭い、いっしょに死ぬのではありませんか」
「ああ、嬉しい」
「お前、ホンまに嬉しいか」
「離れまいぞ」
「離れまじ」
「未来までも」
「七生までも」
「さあ、お前、これでも生きたいと言わ
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