は、同時に自分が征服されるという意地であってみると、もはや我慢ができない。お銀様は易を読みながら創痍満身《そういまんしん》になりました。
「ああ、これは読み直さなければならない、今日まで人間の力で読みこなした人がある以上は、わたしにだって読みこなせないはずはない、もしまた本来、何もわからない出鱈目《でたらめ》が書いてあるものとすれば、これが千年も二千年も世の中に残っているはずはないから、この中にはきっと、人間の中の千人に一人か、万人に一人でなければ理解のできない奥深い真理が籠《こも》っているに相違ない、もしそうだとすれば、自分もその千人に一人か、万人に一人の人になってみなければならない――」
易《えき》にぶっつかって創痍満身のお銀様が、辛《から》くもここまで反省したことは、さすがでありました。難解には難解に相違ない、いま読んで今わかるという本でないことはわかっている、だが、時日を与えれば、自分もこれをわかってみせる――という持久心を取戻したことが、お銀様のさすがでありました。
そこで、お銀様は「周易経伝」の巻を伏せて、その一部四冊だけを別にこっちの経机の上に取って置いてから、次へと書棚の検討をつづけました。
その次に触れたのが「古今集」――これは歯に立つも立たぬもない、自分の家の中庭の花園へ分け入るようなものである。ただ見返しに誌《しる》された、このぬしの墨書《すみがき》が、なかなかに見事で、しかも女の手、そうして、どうやら床の間の「花の色は」の筆蹟と似通っていることだけです。
どうも女文字ばかり多いが、ことによるとこの庵の前住者というのが、やっぱり女ではなかったのか、そこへお銀様がふと気を廻してみました。そういうふうに気を廻して見れば見るほど、その気分が全体ににじんで来る。そこへちょうど婆やが別棟からお茶を持って参りました。
「婆や、前にここにいらしった方はどんなお方でした」
「はい、あなた様と同じような女子《おなご》のお方でいらせられました」
「ああ、そうですか、で、この御本は皆そのお方がごらんになったのですか」
「左様でございます、書物をごらんになり、お歌をお作りになって、よくこの町の娘衆などにも添削《てんさく》をしておやりになりました」
「そうでしたか、それでは、なかなか学問がお出来になるお方でしたね」
「はい、お身分もすぐれていらしったそうでござい
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