いてみているところだ、今は先祖の巻を書き終えて、次は父の巻にうつろうとしているところだ、第三冊が母の巻、それから自分の放蕩三昧《ほうとうざんまい》の巻――自慢にもなるまいが、まあ一種の懺悔《ざんげ》かね」
「せっかく大いにやり給え」
「懺悔にはまだ早かろうがな、善悪ともに書き残して置いてみることは悪くない――閑のある時分に、興の乗った時に限ってやって置くことさ、書いているうちに興味が出てくるよ。自分も早く学者になって置けばよかった、学問をして置けば、新井君美《あらいきみよし》ぐらいにはなれたろう、戯作《げさく》をやらせれば馬琴はトニカク、柳亭ぐらいはやれる筆を持っていたのを、今まで自覚していなかった、我ながら惜しいものだ。時に……」
神尾主膳は、筆を筆架に置いて、投げ出すように、悪食家に向って言いました。
「徳川の天下も、いよいよ駄目だそうだな」
「は、は、は、おかしくもない、今ごろそんなたわごとを言い出すのは、君ぐらいなものだろう」
「徳川の天下が亡びた時は、日本の政治はどうなるのだ」
「そんなことはわからん、そういうことは永井玄蕃《ながいげんば》のところへでも行って聞き給え」
「まあ、君たちの見るところを正直に話して見給え」
「十目の見るところ――言わぬが花だなあ、力めば時勢を知らないと言われるし、くさ[#「くさ」に傍点]せば主家を誹《そし》るに似たり」
「いよいよ駄目かい」
「匙《さじ》を投げるのはまだ早かろう」
「いや、実はおれも、徳川の禄を食《は》んで三百年来の家に生れた身であってみると、それを対岸の火事のようには見ていられない、今日まで自分本位で生きて来たが、とにかく、一朝主家興亡の秋《とき》ということになってみると、別に考えなけりゃならん」
「考えてどうなるのだ」
「どうかしなけりゃなるまい」
「どうしようがあるのだ、要するに徳川をこんなに弱くしたのも、君のような――君一人に背負わせるのも気の毒の至り、おたがいのような享楽主義者が続々と出たその結果と見なけりゃなるまい」
「それを言われると、おれも真剣に考えたくなる――人物がないなあ」
「人物がないよ――今の徳川には人物がないのに、西南のやつらにはウンとある、足軽小者の方面にまで、切れる奴がウンといる」
「旗本八万騎あって、人物が一人もないのかなあ」
「ないことはない、有る――必ず、隠れたるところには
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