やっと眼がさめた様子を見計らって、外からお角さんが言葉をかけました、
「お目ざめになりましたか」
「はい」
お角さんが、屏風をちょっと押しやると、そこで枕についていたのは、やっぱり女の人であります。枕にかかる洗い髪は、まだ若い緑の黒髪がたっぷりしていました。
そうすると健斎老が、これは無言で膝行《いざ》り寄り、患者の枕許へ手を入れて、しずかに取り上げた小腕を見ると細くて白い。
「ねえ、お雪様」
と、お医者さんに脈を見せて置いて、これも一膝進ませたお角さん。
枕に親しんでいるのはお雪ちゃんであります。お角さんは、お雪ちゃんを呼ぶに、お雪ちゃんともお雪さんとも言わない、お雪様と本格扱いです。
「はい」
「先生が、わざわざ田辺からおいで下さいまして、もうすっかり、こっちのものだと太鼓判をお捺《お》しになりましたから、御安心なさいませよ」
「はい」
「そうしてね、お雪様、ここは閑静で、いつまで保養をなさっていてもかまいませんが、何を言うにも宿屋のことですから、行届き兼ねます、あなた様は、大阪へ帰りたい帰りたいとおっしゃいますが、いっそ、暫くこの先生のお宅に御厄介になって、それから充分おたっしゃになってから、大阪の方へお帰りになるようになさってはどうですか」
「はい」
何を言っても、はいはいと逆らわない。逆らわないだけたより[#「たより」に傍点]のないような心持もする。その時、脈を取り終った健斎老が、
「もうほとんど平脈、危険のおそれ更になし、どうです、今このおかみさんがおっしゃる通り、僕のところへおいでなさい、綴喜郡の田辺というところだ、京都から見るとずっと田舎《いなか》だが、空気もいいですよ、小高い山の上に別荘がある、そこで充分に保養なさい、健康が全く回復してから大阪へ送って上げますよ」
「はい、有難うございます」
素直に納得するのを、お角さんがまた傍らから力をつけて、
「そうなさいませよ、万事、少しも心配はいりません、あとのことも、先のことも、すっかりいいようにして上げてありますから」
「有難うございます」
「それから、もう一つ心強いことはね、お雪様、あなたも御承知のあの長者町の道庵先生が御一緒に参りますから、安心の上にも安心でございますよ」
「あの、道庵先生が――」
ここで、お雪ちゃんがはじめて、「はい」と「有難う」との単語のほかに、些少《さしょう》ながら
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