随つて学び、後、辺昭僧正に就いて受く、叡山に五大院を構へ屏居《へいきよ》して出でず、著述を事とす、元慶八年勅して元慶寺の座主《ざす》たらしめ、伝法|阿闍梨《あじやり》に任ず、終る所を記せず、世に五大院の先徳と称し、又阿覚大師と称す、著、悉曇蔵《しつたんぞう》八巻あり」
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 また「元亨釈書《げんこうしゃくしょ》」と「東国高僧伝」とには次の如く要領が記されてあるのであります。
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「安然は伝教大師の系族なり、長ずるに及び、聡敏《そうびん》人に邁《すぐ》れ、早く叡山に上り、慈覚大師に就いて顕密の二教を学びてその秘奥《ひあう》を極む、又、花山の辺昭に就いて胎蔵法を受く、博《ひろ》く経論に渉猟《せふれふ》し、百家に馳聘《ちへい》して、その述作する所、大教を補弼《ほひつ》す、所謂《いはゆる》『教時問答』『菩提心義』『悉曇蔵』『大悉曇草』等なり、その『教時問答』は一仏一処一教を立て、三世十方一切仏教を判摂す、顕密を錯綜《さくそう》し、諸宗を泛淙《はんそう》す、台密の者、法を之に取る、その『悉曇草』は深く梵学《ぼんがく》の奥旨《あうし》を得たり。時人|曰《いは》く、安然は東岳の唇舌を以て西天の音韻に通ず、才|宏劉《くわうりう》なるかなと。都率超曰く、然《しか》り、師は顕密の博士なりと。又曰く、公|若《も》し我が門に入らざれば秘教地に墜つ可しと。その英賢の為に旌《あらは》さるること此《かく》の如く、元慶八年勅して元慶寺伝法阿闍梨と為す」
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 これほどの大善智識でありながら、死後すでに一千年、誰もその徳を慕う者がないばかりか、その記念の塔ですらが、世間から冷遇されるとは何と不幸な聖《ひじり》ではないか。
 住職和尚から、この一通りの来歴を説明されて道庵先生が、
「なるほど、五大院の安然大和尚が、教界古今の大学者だということは、拙者も兼ねて承らないでもありませんがね、それが、あねさん[#「あねさん」に傍点]呼ばわりは、語呂の共通転訛の致すところで、やむを得ないとしてからが、それほどの大徳が、今日に至って、さほど世間から冷遇されるというのは、どうしたものでござるか、明智光秀の塔が壊されるとか、足利尊氏《あしかがたかうじ》の木像が梟《さら》されるとかいうなら、筋は通るが、しかし、碩学《せきがく》高僧である大和尚が、死後まで、
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