ざいまして、お酒の通いなども、ちょこちょこ[#「ちょこちょこ」に傍点]とございます、何でしたら、あちらの方へ御転宿をなさいましたら……」
 伊太夫の家来と、お角さんのおつきとが、こう言って御機嫌を取ったものですから、道庵先生もいささか悲観を立て直し、
「そいつは面白い、小町なんぞは、わしには縁がねえが――何か、生活に変化を与えてもらいてえと考えていたところさ、宿屋の飯は悪くて高いからなあ――(この時、障子の外を宿屋の番頭が通る、二人の者が首をすくめるこなし、道庵は平気)何もしねえで、悪くて高い宿屋の飯を食っていることは天道様に済まねえ、何か生活に変化を与えて、充実した仕事をやりてえと思っているところだ、そういう空家があるなら、早速世話をしてもらいてえ。実はね、いろいろ考えたこともあるんだ、そういう閑静なところで一仕事やって、この退屈時間を有利に使用してえと考えていたところなんだ、そういう空家があると聞いちゃあ耳よりだね」
「それはもう至極閑静な、ながめもよろしいところでございます」
「実は、こうしている間に、そこで本草《ほんぞう》の研究をやりてえんだよ、胆吹山で、しこたま薬草の標本を取って来ているが、それも押しっぱなしで、風入れもしてなけりゃ、分類もしていねえんだから、ひとつそれを一心不乱に片づけてみてえと思っているところさ」
「そういう研究をなさるには、至極結構なところでございまして、その上に便も至極よろしく、石段を下りますともう町屋でございますから……酒の通いもちょこちょこ[#「ちょこちょこ」に傍点]」
「その便のいいところが、老人には何よりさ、お酒の通いもちょこちょこ[#「ちょこちょこ」に傍点]というやつがばかに気に入ったねえ、お前さんも洒落者《しゃれもの》でうれしいよ」
「あ、は、は、はっ、はっ」
 そういうわけで、この先生が旅籠屋から移動せしめられたところは、つい一昨日までのお銀様のかりの住居《すまい》――小町塚の庵なのでありました。

         三十五

 道庵先生がこの庵へ移った時の庵と、お銀様が寓居《ぐうきょ》していた時の庵と、庵に変りはありませんが、中の意匠調度は一変しておりました。変らないのは、かのしょうづかの婆さんの木像のみで、書棚もしまいこまれてしまったし、算木《さんぎ》筮竹《ぜいちく》も取りのけられて見えない。「花の色は」の掛物も取
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