です。ここで、今後の長期航海に堪えるあらゆる物資を集めて、或いは新たに積入れ、或いは極度の補充をして行かなければならない。その物の補充に於ては、あらかじめ駒井船長が多大の心配を持っておりました。
 何となれば、船籍の不明瞭なこの船へ、人が恐れて物資を供給しないことになるかも知れない。よし供給してくれたにしても、その限度というものがある。釜石は悪い港ではないけれども、何を言うにも中央から遠い、ここで補給すべくして、出来ない品がありはしないか。
 そういうものは、今後どこで補充するか、というような先から先までを、駒井が頭に置いて、補給の準備を命ずると、案外にも非常に迅速に且つ多量に、ほとんど立ちどころに補給の道がつきました。代金も相当、或いは相当以上にしはらったには相違ないが、さりとて、この迅速豊富なる供給ぶりは、ただ金銭だけには換算し難い好意というものが含まれていることを、駒井船長が認識せざるを得なかったけれども、しかし、自分の船が、知らぬ他国の人から疑惑を蒙《こうむ》ろうとも、好意を寄せらるべき因縁《いんねん》は持たない。それを、こんなに土地の人が好意を以てしてくれることは、おそらくこの土地柄なんだろう。この土地の気風が、おのずから他国の客を愛するように出来ている、その人気の致すところかも知れない。駒井はその辺に疑惑を持ったけれども、これは悪い方の疑惑ではない、極めて素質のよい疑惑でありました。
 こうなった以上は、この港に久しく留るべき理由はない。万端がととのうて、即時出帆ということになりました。
 船が動き出した時に、陸上に、意外にも多数の見送りの人が現われました。ズラリと海岸に並んで、こっちへ向って笠を振り振り、さらば、さらばをしている。そこで、駒井をはじめ、船の者がまた不審がりました。あの人たちは、たしかに人を送るの情を現わしているようだが、さて送られる人は誰だ。我々は、ここに仮りの碇泊こそしたけれども、送らるべき知己を持たない。他に船出する人があってそれを送るべく、あそこに立っている。この船が大きく、あの人たちの送る舟が小さいがために、こちらが好意を独占するような形式におちているのではないかと、港の周囲を見渡したが、自分たちの船のほかに、それと覚しい舟の出帆は一ツも見えない。そこで、こちらは戸惑いをしました。我々を送ってくれるならばその好意を受けて、これに
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