たとは言い条、無事なのはその身体《からだ》の健康だけで、外面は絶大なる異変を以て、見る人の目を驚かさずには置きませんでした。船へついて、はじめて笠を取った七兵衛の頭を見ると丸坊主でした。それに、袈裟《けさ》こそかけていないが、首に大きな一連の数珠《じゅず》をかけておりましたことが、誰をしも、七兵衛らしくない七兵衛だと驚異がらせずには置きません。
それと、もう一つは、この不可解な新しい老発意《ろうぼち》が、張りきった若盛りの田舎娘《いなかむすめ》を一人携帯して来ていることです。七兵衛おやじだってまだ五十にはならないのだから、男やもめに花が咲いて、長い道中の間、艶種の一つも作るということは、或いはお愛嬌みたようなものかも知れないが、いい年をして人前へ若いのを引っぱり込んで来たと言えば、七兵衛らしくもないだらし[#「だらし」に傍点]なさを感ずるけれども、とにかく、頭を丸めてしまって、そうして数珠をかけながら、そうして、若いのを引っぱって来たものですから、まるで判じ物のようでありました。
そこで、清澄の茂の野郎の遠慮のないすっぱ抜きが、誰でもの人の驚異と疑惑とを代表して発表されました――
[#ここから2字下げ]
帰った
帰った
七兵衛おやじが帰った
嬉しい
嬉しい
七兵衛おやじが
やっとこさと戻った
戻ったと思ったら
やっとこさと丸坊主
丸坊主
丸坊主
七兵衛おやじが丸坊主
やっとこさと丸坊主
[#ここで字下げ終わり]
七兵衛が、船へ上って、乗組の者に挨拶《あいさつ》をするために笠を取った、その途端にこの歌が飛び出たものですから、一同がドッと笑い、七兵衛が思わず苦笑しましたが、その苦笑のうちには、言い知れぬ苦闘の含蓄があって、笑いかけた一同のものを笑えないものにしました。だが、茂公の即興はひるまない。
[#ここから2字下げ]
皆さん
七兵衛おやじが
坊主になって
若い女の
手を引いて戻って来ましたよ
これには
仔細のあることでしょう
[#ここで字下げ終わり]
なんてませた言い方だろう、もう慣《なれ》っ子《こ》になっているから、船中同士はさのみ驚かないけれど、七兵衛につれられて来た若い女その人は、真赤になりました。ただでさえ、もう上気しきって、わくわくしているところへ、無遠慮にこんな歌を浴びせられたものだから、真赤になるのも無理はありません。
[#ここから2字下げ]
前へ
次へ
全178ページ中76ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング