留まりあそばせ、天の成せるものを、人の力で破壊することは宜《よろ》しくありませぬ、身体髪膚の教えもございます、あなたのその若い美しいお面を灼きこわしてまで、わたしたちは助力を願うのに忍びませぬ」
 面を灼くと言ったために、夫人の心がいたく傷つけられたのを見て、梶川少年は取りつくろって申しました、
「拙者とても、強《し》いて、そんな事をしたいのではありません、岡崎街道で、ああいうことをしでかして来ていますから、万一を慮《おもんぱか》っての覚悟なのです」
「もし、そういうことを実行なさる場合には、前以て、必ず一応、わたくしに御相談をなすってからのことにして下さい」
「承知いたしました」
「わたくしたちの目的のためには、あなたに指導者になっていただかなければならないから、あなたの一身上のことについては、わたくしが年上ですから、姉でありますから、わたくしの許しなしには、髪の毛一筋でも自由になさることは許しませぬ」
「は、は、は、これはきつい御命令を承りました、委細心得てござりまする」
 ここで二人の睦《むつ》まじやかな会議、新たに意気相許す一対の姉と弟が出来上りました。

         九十五

 胆吹の御殿ではお銀様が憤《いきどお》っている。
 お銀様は絶えず憤っている人である。その人が、憤りの上にまた一つの憤りを加えた。
 何を憤っている。
 お雪ちゃんという子が、恩を忘れて裏切りの冒涜《ぼうとく》の行動をしている、それを憤っているのか。そうではない。
 竜之助という男が、無制限の放縦と、貪婪《どんらん》と、虚無に盲進する、それを憤っているのか。そうでもない。そんなことはこの暴女王にとっては、憤慨ではなくて、むしろ興味である。
 そもそも、この暴女王が今日に及んで、かくも深く憤りを発しているという所以《ゆえん》のものは、己《おの》れの夢想する王国が、土台からグラつき出したから、それを見せつけられるがために憤っているのに相違ない。
 人間というやつは度し難いものだ、人間というやつは救うよりは殺した方が慈悲だ、とさえややもすれば観念せしめられることの由を如何ともし難い。
 ナゼならば、彼女は己れの強力を傾注して、有象無象《うぞうむぞう》をよく生かしてやらんがために事を企てているが、ここに来る奴、集まる奴にロクな奴はない! いや、ここに来る奴、集まる奴にロクな奴がないのではない、およそ生きんことを欲する人間にロクな奴がない! という断案を得ようとして、それを得させまいがために、自ら苦心、焦慮、憤慨しているのである。
 もし、こういう論理を許すとすれば、自分の王国主義を、甘んじて虚無主義に屈服せしむる結果となる、それでは絶滅の使徒、虚無の盲人に笑われるばかりだ。生の哲学から、死の哲学に降服を余儀なくされるばかりだ。
 彼女は、ここに働く人間共の表裏を見せつけられる。人間は働きたいが本能でなく、なまけたいのが本能だ。生をぬすまんがために表面追従するだけで、生の拡大と鞏固《きょうこ》とを欣求《ごんぐ》するような英雄は一人も来やしない。彼等の蔭口を聞いていると、この王国を愚弄し、わが暴女王の甘きにタカるあぶら虫のような奴等ばかりだ。こんな連中に世話を焼いてやるべきものではない。残らず叩き出して、出直させるに越したことはない! とさえ、この女王を思い迫らせる。
 王国の門を鎖《とざ》し、垣を高くして、いま来ている奴等を残らず叩き出して、新たに出直さす――と言ったところで、彼等をどこへどう叩き出して、どこから出直させる。所詮、母の胎内へ押戻して、再び産み直させるよりほかに道はない。
 お銀様は、この深い憤りを抑《おさ》えて、御殿の一間から琵琶の湖面をながめている。
 憤っているのは、お銀様ばかりではない。道庵というような出しゃばり者を別にしては、誰も彼もが、みんな憤っている――ように見える。およそ今の時勢に、笑ってなんぞいられる奴はない。
 お銀様が、これを深く憤っている時に、城下――御殿下とか、屋敷下とかいうよりは、ここからは城下といった方がふさわしい、胆吹御殿の城下がにわかに物騒がしくなりました。春照、弥高の里で、早鐘が鳴り出しました。
「一揆《いっき》が来るぞ!」
「百姓一揆が押して来たアー」
 どこからともなく響く号叫。



底本:「大菩薩峠18」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年8月22日第1刷発行
底本の親本:「大菩薩峠 十一」筑摩書房
   1976(昭和51)年6月20日初版発行
※疑問点の確認にあたっては、「中里介山全集第十一巻」1971(昭和46)年6月30日発行を参照しました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:原田頌子
2004年2月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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