し、駒井船長にとってもかけがえのない名秘書であることを、ひそかに慶賀しているが、お松の今夜の勉強ぶりに対して、白雲がなんとなく、一抹《いちまつ》の不満を感ずるような心地がされたのは、それは、さいぜんからの駒井船長との会話と、それに引続く甲板上の暗闘と、それから露骨なる清澄の茂太郎の反芻《はんすう》とからの持越しの晴れやらぬ心が、お松の夜更けの勉強ぶりに反映するものがあって、そうして、白雲の心を曇らせているのです。
 その予備感覚がなければ、お松のこの勉強ぶりに、淡泊無雑なる敬愛の念を持ち得たのだが、それがあったために、あの原稿紙が今夜に限って、真白な色にばかりは見えないのであります。
 そこで、今もした通り、いつもよりは多少しつこく、それは何を書いているのです、写し物は何です、翻訳はいったい何種のものの翻訳? とまで、つきつめた駄目を押してみる気にもなったのですが、お松が書いている原稿そのものが、さいぜん聞かされた駒井氏の持論と、それから、無意識に茂太郎の反芻によって曝露《ばくろ》された内容と、相関聯しないという限りはない。
 そこで、田山白雲は、二度まで、つくづくと考えさせられました。
 茂の野郎が、たとえ無意識の反芻とは言いながら、ああいうことを口走るのはよくない。口走る方には罪がないとしても、口走らせるに至る物象によろしくないものがある。彼が高唱する出鱈目《でたらめ》のその多くは、突飛であり、お愛嬌であるに過ぎないが、彼の口から、一夫多妻、一妻多夫論の一端を高唱せしむるに至っては、断じて、お愛嬌なる出鱈目の一種としてのみ看過せらるべきではない。
 しかし、茂公は茂公として、彼自身が意識していない囈語《うわごと》の一種だから、その点は責むる由はないが、今、貞実無比なるお松が、深夜、入念に筆写を試みているその内容は、これは決して無意識に筆を運んでいるものとは受取れない。茂太郎の如く無遠慮に高唱しないだけに、その筆端の一字一句が、あの聡明なお松の理解力と感覚に触れることなしには、表現されないはずのものなのである。
 そう考えると、田山白雲は、どうしても、お松がいま一心不乱に筆写しているところのものの内容が、当然、駒井のさきほどの持論と、茂太郎の反芻と、必然的に交渉を持たない限りはないということを聯想せしめられる。茂太郎が高唱したものの、なおいっそう深刻にして精緻《せいち》な内容が、あの原稿紙に載せられつつある。
 それを思うと、田山白雲は、いよいよ考えさせられるものが※[#「「分/土」」、第4水準2−4−65]湧《ふんよう》して来る。
 駒井氏は、あれを翻訳し、自ら草稿を作ったり、或いはお松に面《ま》のあたり口授《くじゅ》したりして、著作を試みているに相違ない。
 貞実無比の女性とは言いながら、まだ若い娘である。それで、ああいう大胆な世界的の性知識を、無遠慮にブチまけてよいものか、どうか。
 駒井なればこそ、お松さんなればこそだが、その一端をでも、茂公の如きに盗み見られたり、小耳にハサまれたりした日には、すなわち今のような収拾いたし難き発声となって、遠慮会釈なくブチ蒔《ま》かれる。
 いったい、駒井氏という人は、道徳的の君子なのか、科学的の学徒なのか、その辺の差別がありそうでない。田山白雲は、二人の人格を信ずるけれども、お松が書きつつあった堆《うずだか》い原稿紙に向って、むらむらと一種の敵意のようなものの湧くのを禁ずることができませんでした。

         七十

 白雲も無名丸の警視総監として、今夜は特に多事多忙なるに昂奮を感ぜしめられつつ、その頭燃《ずねん》を冷さんために、再び現われるでもなく甲板上に現われて、そぞろ歩きに似た歩き方を試みている途端に、ハッとその足を止めざるを得なかったのは、先刻のメイン・マストの下に、またしても人がいる。
 茂公のやつ、あれほど言ったのに、まだこの辺にうろついている。一喝《いっかつ》して追い飛ばしてくれようと身構えた時に、それは茂公ではないことが直ちにわかりました。
 茂公ではないが、ちょうど茂公程度の小さいのが、柱の下にうずくまっていることは明らかで、それが急病にでもうなされて、起きも上れないのかと見ると、やがて半身を起して、両手を組んで高く差し上げたところを見ると、病人ではない。
 白雲は、立ち止って、その挙動を仔細に凝視する立場になったのは、物体そのものにも忽《たちま》ち諒解が届いたからなのであります。
「金椎君《キンツイくん》だ」
 これは、支那少年の金椎君でありました。白雲はその金椎なることを受取るには、長い時間を要しませんでしたけれども、認められた金椎に於ては、白雲の来《きた》って彼の後ろに彳《たたず》むということを更に感づきません。
 何事にか夢中になって、それで己《おの》れの背後に人の来り彳むことを忘れたのではありません。本来、この少年は聾《つんぼ》で、そうして唖《おし》です。じらい聾なるが故に唖となったのか、唖なるが故に聾とされたのか、それは別問題として、この少年は五官のうち、見ることは許され、聞くことということは許されないのですから、後ろから来る人の物音には、いっこう気づかない本能を成している上に、これも何か特に一心不乱になるものがあって、たとえ耳あって聞くことを許され、口あって言うことを可能とされておりながらも、心の昂上と、熱心とのために、その働きを塞《ふさ》がれているほどの統一を白雲は凝視している。
 両手を組んで、高く差し上げたかと思うと、再びそれを下に卸して、首を下につけた、というよりは、五体のすべてを投げ出して平伏《ひれふ》しました。その度毎に、声はないが激しい震動がある。激しい魂の震動があって、凝視している白雲の心臓にこたえるものがある。
 彼は仰いで天に訴え、伏して地に訴えるの形をしているのだ。仏教でよくいう五体投地の形をしているのだ。つまり、天地神明に対して、身を以て祷《いの》りつつあるのだという感動をも、田山白雲は直ちに受取ってしまいました。
「金椎さんは、イエスキリストを信じています」
 これは常に清澄の茂太郎が高らかに呼ぶところの反芻《はんすう》の一句でありますから、白雲は即座に、それをその通り受取ることができる。
「いかにも、この少年はイエスキリストを信じている、イエスキリストというのは、つまり、キリシタンバテレンなんだ――だが」
 白雲は、キリシタンバテレンに対しては、先入的に好感は持てないながら、なんにしても一箇の生霊が全心全力を挙げて、天地の間に礼拝《らいはい》している形式そのものに対しては、粗略になれない。
 何とは知らず、骨までゾッとしたものに襲われて、この少年の挙動をさまたげてはならない――という気になって、粛然として息を呑んでいると、五体投地の少年の前面に、つまり、親柱の麓《ふもと》のところに、異様にかがやくものの存在を認めました。よく見ると、夜目にもしるき丈《たけ》一尺ばかりなる銀の十字の柱が、厳然と押立てられて、少年はその銀の十字の柱を対象として、全身全霊を以て礼拝している。今や、白雲自身が、今夜いままでのあらゆる紛々たる感覚を忘却して、凝然として、十字の柱の前に輾転躍動する支那少年の魂を見つめないわけにはゆかない。

         七十一

 金椎少年は、駒井の如く語らない、茂太郎の如く歌わない。だから、何が故に信じ、何のために祈るのだか、一向わからない。
 駒井船長が語り過ぎるほど語り、茂太郎少年が歌い過ぎるほど歌う声の幾分をうつして、この信仰少年に語らせたいと思うけれど、それは思うに任せない。
 どだい、田山白雲は、宗教には冷淡な男である。冷淡というよりは、認識がまだそこまで至っていないと見た方がよろしい。小湊《こみなと》の浜で、梵音《ぼんおん》海潮音《かいちょうおん》を聞かせられたことはあるけれども、彼にはその感激はあるけれども、体得はない。名僧智識は格別だが、普通一般の宗教だの、信心だのというものは、要するに功利本位の願がけに過ぎないものだ。
 或いは観音を的にし、或いは聖天《しょうてん》を的にして、ただ単に祈る心は要するに、病気を直したい、息災延命で暮したい、女には惚《ほ》れられ、お金はたくさん儲《もう》かりますように――裸にしてしまえば要するに、そんなものだが、さて、それにしても、その信心ごころという殊勝なものを、無下《むげ》に軽蔑してはよろしくない。信ずるものは信ずるように、祈るものは祈りたいように任せて置けばよいのだ。ただひとり、キリシタンバテレンときては、表面は信心で、内実は日本の国を取りに来るのだということだから、こいつだけはうっかり許せない、と伝統的に心得ているだけで、あえてキリシタンバテレンの正体を確かにつき留めているわけでもない。
 だが、たとえ国禁なりといえ、この船の中に限って、この不具少年がひとり信仰している分には、歯牙にかくるに足りない。豊臣時代から、徳川初期のバテレンのように、大袈裟《おおげさ》に外国と連絡をとらない限り、日本の内地で一人や二人、こっそり拝んでいる分には、なにもそう手厳しく詮議するがものはないじゃないか、大人げない――といった程度のキリシタン観に止まっている。
 金椎少年はこの船の中で、ひとりキリシタンを信じている。暇があればキリシタンのお経を読み、感きわまれば到るところで、ひとり祈るの習慣を持っていることは、田山白雲も夙《つと》に認めている。ただ今晩は今晩並みに、かつまた異常なところで不意に出くわしたから、こちらの衝動が大きかったというまでのことである。
 安らかに祈らしてやれ、哀れな少年だ、聾《つんぼ》にして、唖《おし》にして、しかも孤《ひと》りなる異国少年――祈るがままに、さまたげず祈らしてやるがよろしい。
 しかし、まあ、いったい、深夜早朝を問わず、かくも一心に何を祈るのだ。
 どうぞ、神様、わたくしのこの口が人間並みに利《き》けまするように、また、どうぞ、神様、わたくしのこの耳が人様並みに聞えまするように――
 お憫《あわ》れみ下さい。
 不具な少年が、せめて人間並みになりたいという、それだけのものだろう――と、白雲はやはり、金椎少年の祈ろうとするものを、これだけの範囲に解釈している。浅草の観音様であろう、妻沼《めぬま》の聖天様《しょうてんさま》であろう、そこに若干のお賽銭《さいせん》を投じて、最も多くのお釣を取りたい、些少《さしょう》の礼拝を以て、最大の健康と利福とを授かりたい、その釣銭信仰を軽蔑してはいけない、その人情の弱点と、何物にかすがろうとする信頼心を、むしろ憐れまなくてはならない! という惻隠《そくいん》を移して、やはり、この金椎少年の祈り、すなわち病気平癒のために支払わんとする代価を、寛大に取扱ってやりたいと思っている。
 白雲の認識では、これだけの同情しか持ち合わさないのだが、認識は認識として、感動はそれと別個の力で働いて行くのであります。
 第一、この祈り方は、他のあらゆる多くの宗教の祈り方とは全く異っている。方法がちがっているのではない、心の向け方が異っている。一言に言えば、物を求むるの祈り方でなく、罪を謝せんとするの祈り方である。病を癒《いや》さんための祈願ではなく、身を捨てんとするの祈り方だ。
 この苦しさから救えという祈りでなく、この苦しさを十倍にして、この一身を罰し給えという祈りに見える。己《おの》れの罪という罪、悪という悪をぶちまけて、これを審判の前に置き、残るところの裸身《はだかみ》を、あの十字の柱に向ってひしひしと投げかけている絶体絶命の仕草である。
 こういう劇《はげ》しい祈り方というのはないもの――その劇しい祈り方に、白雲は次第につり込まれて、ついに身の毛のよだつ思いを如何《いかん》ともすることができない。

         七十二

 仙台の仏兵助《ほとけひょうすけ》に追われた裏宿の七兵衛は、安達ヶ原より、もっと奥の奥州の平野の中へ陥没してしまったことは前篇の通りです。
 無人の平野大海の中へ陥没し
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