河原《ごんだがわら》に屯《たむろ》し、同勢みるみる加わって一万以上に達し、破竹の勢いで東海道を西上し、石部《いしべ》の駅に達したが、膳所藩《ぜぜはん》の警固隊を突破し、三上郡に殺到、そこで他の諸郡の勢と合し、無慮二万人に及んで、三上藩に押寄せるという勢力になった。
幕府の勘定方の役人は、その時、三上藩にいたが、藩の役人が怖れて急ぎ避難をなさるようにと勧めたが、剛情我慢な幕府勘定役人はそれを聞き入れない。ついに群集は陣屋へ殺到して、勘定方役向を取囲んで口々に歎願を叫んでいる。幕府勘定方役人の生命も刻々危急に瀕《ひん》している――
十八
なお、そのことのあった前後、青嵐居士《せいらんこじ》がまたしても、胆吹の山荘に不破の関守氏を訪れての会話が漸く興に乗ると、次のようなことを滔々《とうとう》と論じ立てました、
「そもそも徳川氏ばかりが、農民の敵だと言いふらすやからは、二を知って一を知らないものですよ――例の豊臣氏なんぞが、むしろ農民を搾《しぼ》る方の本家と言ってしかるべきでしょう。たとえばです……
日本に於て、農民が最も幸福であった時代は鎌倉時代、とりわけ北条時代
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