上げるのでございますか」
「それはね、行って見ればわかります」
「でも……」
と、こんどは、お雪ちゃんの言葉が淀《よど》みました。お雪ちゃんとしては、お銀様のおともをして長浜まで行くものとばっかり思っていたのが、そのお銀様は行かないで、自分一人で行け、行った先に人がいるから、その人を介抱に――しかも、その人は誰か、行って見ればわかると言われるほど、お雪ちゃんの気分が、わからないものになります。
二十五
「ねえ、お雪さん、あなたは、わたしのたった一人の妹でしょう、たしかにそのはずです」
「勿体《もったい》ないことです、わたしは、お嬢様にそうおっしゃっていただきましても、あなた様の御家来のつもりでおります、御姉妹なんぞ及びもつきません」
「では、もし仮りに家来として置きますと、なおさらわたしの言いつけを反《そむ》きはしないでしょう」
「反きませんとも、お嬢様のおっしゃることならば、火水《ひみず》の中でも……」
「では、黙って、長浜へ行って下さい、そうして浜屋の裏の木戸口へ行きますと、刎橋《はねばし》があります、そこから入って、しるしがしてありますから、誰にことわる必要もありません、廊下伝いに行きますと、秋草の間というのがありますから、そこへ入って行くと用向がすっかりわかるようにしてあります」
「承知いたしました」
お嬢様のためならば火水の中までも、と言った手前、お雪ちゃんは無条件でその言うことを聞き従わなければなりません。
「そうして、つまり、病人がいるのです、その看病を、心ゆくばかりあなたに頼みたいのです」
「御病人の看病でございますか、承知いたしました、わたしでできますことならば、できます限り――」
「できますとも、あなたでなければならないのです」
「いいえ、わたしは御病人の看病なんぞ、あんまり慣れませんから」
と、お雪ちゃんが謙遜し、服従しながらも、心の中では合点し難いものが多いのです。病人の看護は頼まれればできない限りはないが、わたしでなければならない病人の看護というものがあるべきはずもないでしょうのに、お銀様の言い廻しが、どうも少し変だと思われないではないが、やはり、絶対服従を誓っている以上は、反問は許されないことで、お雪ちゃんとして、このお嬢様の特異性を心得ているばかりか、このごろでは、心から崇拝する信仰的にさえなりつつあるのですから、否やはあろうはずはありません。お雪ちゃんを退引《のっぴき》させないようにして置いてから、お銀様はなおも畳みかけて言いました、
「その病人は、病人のくせに、退屈がって出歩きをしたがっていけないのです、ことに夜分は気をつけなければいけませんから、お雪さん、あなた、目を離さずついていて、一寸も外へは出さないようにして下さい。尤《もっと》もあなたがついていれば、お出なさいと言っても、出ないかも知れません」
「そんなはずはございません」
お銀様の言いぶりが、いよいよ消化しきれないものがあるので、その申しわけも、お雪ちゃんとしていよいよ要領を得ないものになる。それをもお銀様は押しかぶせて、
「でも、そうしているうちに、わたしも行くでしょう、そうしたら、その人たちと一緒に、竹生島へでも参りましょう、湖水めぐりもやりましょう」
「それは嬉しうございます」
お雪ちゃんがお礼を言う。お銀様は冷然として、
「では、これから直ぐお頼みします、行きだけは誰かに連れて行ってもらいましょう。ああ、誰かというより、友さんがいいでしょう、米友さんに頼んで送って行ってもらいましょう」
「あ、お嬢様、その米友さんでございますが……」
ここで、お雪ちゃんの気色も、言葉も、ガラリと変ってしまいました。
「友さんが、どうかしましたか」
「あの、お嬢様、米友さんの行方が知れなくなったのでございます」
「どうして」
「なんでも、お嬢様がお出かけになって間もなく、やっぱり長浜の方へお出かけになったまま、音沙汰《おとさた》がないのだそうでございます」
「あの人のことだから……」
お雪ちゃんがあわただしいわりあいに、お銀様は冷淡な挨拶です。それというのは、行方不明といったところで、あの男のことだから、やがてひょっこり帰って来るだろう。或いはもう立帰って、料理場の隅に好きな栗でも茹《ゆ》でているのではないか、といった程度のものです。ところが、お雪ちゃんの不安な色は容易に去らないで、
「いいえ、それが只事ではないらしうございます、役人に捕まって、晒《さら》しとやらにかけられているというような、不破の関守さんのお言葉でしたが、くわしいことをわたくしに知らせて下さらないのが、いっそう心配なんでございます」
二十六
米友の行方については、お銀様も、お雪ちゃんも、関心の限りでないことはないが、さり
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