せん。近江商人が最も恵まれた成功者だとすれば、近江農民は最も恵まれざる落伍者だということもできます――」
「なるほど」
「江州人だとて、皆が皆、そう他国へ進出して成功する者ばかりではありません、この国に残って兵馬の奴隷となり、或いは痩畑《やせばたけ》の番人とならなければならぬ運命に置かれた農民こそ、最も恵まれざる者と言うべきでしょう」

         二十一

「かく、一方には他領他国へ進出して富を成す成功者があると共に、一方にはちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]することさえ許されざる農民が存することは、おたがいよく考えてみなければならないことです」
「なるほど」
「外へ発展するの機運に恵まれず、内にとどまっていては、搾《しぼ》られて骨も身も食われてしまう、そこで、やむを得ず他領へ出奔せんとすれば、ちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]律があって、厳として身動きが許されない、下手な講釈師のやる荒柳美談ではないが、彳《たたず》むな、立つな、歩むな、居坐るな、というところが即ち農民の立場なのです」
「なるほど、そうなりますと、いよいよ古《いにし》えの諺《ことわざ》にあるが如く、民に倒懸の苦ありということになりますな、農民は倒《さかさ》にブラ下がっているより仕方がないというわけですな」
「なんにしても、ちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]律はよくありませんな、行動の自由、移住の自由を奪うということはよくありませんな。民に移住されると、領土を耕す人がなくなる、自然、領主がやりきれなくなる、という結果が怖い、移住されることがそれほど苦しければ、民を優遇するに越したことはないではないか、優遇というのが為し難ければ、人間が住めるだけのようにしてやる責任が領主にはあるでしょう、罪人ならざるものを、一定の土地に監禁して、動く勿《なか》れと命ずるのは悲惨ですね」
「あらゆる農民いじめのうちに、このちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]律が最も不合理だと思います。最近です、湖岸の町々村々にも、このちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]律の制札が出ましたのをごらんになりましたか」
「私も、ちょっと見かけました」
「あの文言をお読みになりましたか」
「一読いたしました」
 ここで、二人の問答にかかって、見たか、読んだかの問題に上っているちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]律の制札なるものは、多分、先日の日、長浜の町の会所の附近に於て、宇治山田の米友の目に触れたあれであります。
 それならば、「胆吹の巻」の十八回のところにある――

 長浜の会所へ、両替の使に用心棒としてついて来た宇治山田の米友は、会所の前に暫《しばら》く待っていたが――そこに高札場があって、いくつもの札のかけてあるのを見つけました。その高札を片っ端から読んでみますと、その真中のいちばん大きいのに、次の如く書いてありました。
[#ここから1字下げ]
   「定
何事によらず、よろしからざることに、百姓大勢申合せ候を、とたう[#「とたう」に傍点]ととなへ、とたうして、しひて願事企てるをがうそ[#「がうそ」に傍点]と言ひ、あるひは申合せ村方立退候をてうさん[#「てうさん」に傍点]と申し、他村にかぎらず、早々其筋の役所に申出づべし、御褒美として、
 とたうの訴人  銀百枚
 がうその訴人  同断
 てうさんの訴人 同断
右之通下され、その品により帯刀苗字も御免あるべき間、たとひ一旦同類になるとも発言いたし候ものの名前申出づるにおいては、その科《とが》をゆるされ、御褒美下さるべし。
 一、右類訴いたすものなく、村々騒立ち候節、村内のものを差押へ、とたうにくははらせず一人もさしいださざる村方これあらば、村役人にても、百姓にても、重にとりしづめ候ものは、御はうび下され、帯刀苗字御免、さしつづきしづめ候ものどもこれあらば、それぞれ御褒美下しおかるべきもの也。
  年 月 日[#地から2字上げ]奉行」
[#ここで字下げ終わり]
 それを読んでしまった米友が、高札の表を横目に睨《にら》んで、
「ははあ、一味ととうしちゃいけねえってえんだな、申合せをして村方を立退くのもよくねえてえんだな、それを訴人しろてえんだなあ、訴人した奴には銀百枚を御褒美として下しおかれようてえんだな、なおその上に、次第によっちゃ苗字帯刀も御免あろうてえんだな……一味ととうして乱暴を働くのが悪いのはわかり切ってるが――苦しくって堪らねえから、村をちょうさんして、どこぞへ落ちのびて行くのも罪になるんだ、いてもわるし、動いても悪し、立って退けばまた悪い、百姓というものは浮む瀬がねえ」
と言って彼は浩歎したのであったが、思いきや、そこで、その悪逆なる罪名を自分が蒙《こうむ》って、ちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]の罪を着せられて、「晒《さ
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