人も騒げば、我も騒ぐ。
「太閤様の晒し首」
 子供たちは嬉しがって騒ぐが、苦笑せぬ大人とてはない。
 何者がした悪戯か、いたずら[#「いたずら」に傍点]が過ぎる。まさに知善院蔵するところの天下一品と称せらるる豊臣太閤の木像の首を模して、斯様《かよう》な素人細工を急造し、そうして、昨日までの生きた現物と引換えてここへ晒《さら》したものに相違ない。農奴とはり出された宇治山田の米友にとってみれば、今度は、かりにも豊太閤の面影と引替えになったということになってみると、いささか光栄とするに足るというべきだが、太閤の影像にとっては迷惑この上もあるまい。
 何の理由があって、何者がこういう摺替《すりか》えを行ったかということはわからない。無論、有司の仕業ではなく、何者かの最も悪趣味なるいたずら[#「いたずら」に傍点]であることはよくわかる。この時代に於ては、こういうたちのいたずら[#「いたずら」に傍点]が、よく流行したもので、その最も代表的なるものは、京都の等持院の足利家累代の木像を取り出して、四条磧《しじょうがわら》にさらしたことである。
 しかして、この場合に行われたのは、足利家とはなんらゆかりのない豊臣太閤が、同様の私刑に行われたという現象であって、一見して誰もが、相当に度胆を抜かれたが、その傍の捨札までが、いつしか書き替えられてあるということは、文字ある人だけが気のついたことであった。新たなる捨札の文言《もんごん》に曰《いわ》く、
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「コノ者、農奴ヨリ出世ノ身ニカカハラズ、農民搾取ノ本尊元凶タル段、不埒《ふらち》ニツキ、梟首申シツクルモノ也《なり》」
[#ここで字下げ終わり]
 この意味がわかるものもあるし、わからないものもある。いずれも度胆を抜かれた体に於ては同じものです。

         十七

 琵琶湖畔に農民暴動の空気が充ち満ちている――
 ということは、前冊書にしばしば記したところであるが、その要領としては、「新月の巻」第四十九回のところに、不破の関守氏が、お雪ちゃんに向って語ったところに、「まあお聞きなさい、お雪ちゃん、こういうわけなんです、事の起りと、それから、騒動の及ぼす影響は……」と前置をして、
「今度の検地は、江戸の御老中から差廻しの勘定役の出張ということですから、大がかりなものなんです。京都の町奉行からお達しがあって、すべての村に於て、この際、如何《いか》ようなお願いの筋があろうとも聞き届けることは罷《まか》り成らぬ――村々からあらかじめ、そのお請書を出させて置いての勘定役御出張なのです。そこで老中派遣の勘定役が、両代官を従えて出張して参りましてな、郡村に亘《わた》って、検地丈量の尺を入れたのでござるが、もとよりお上のなさることだから、人民共に於てかれこれのあろうはずはないのでござるが、そのお上のなさるというのが、必ずしも一から十まで公平無私とのみは申されませんでな。
 つまるところわいろ[#「わいろ」に傍点]なんですね。当節は到るところ、それなんだからいけませんなあ、わいろ[#「わいろ」に傍点]でもって、すっかり手心が変るんですからいけません。いったい、役人がわいろ[#「わいろ」に傍点]を取って、公平を失するということほど政治上いけないことはありませんね……今度の騒ぎも、そもそもそのお江戸の御老中派遣の勘定方が、わいろ[#「わいろ」に傍点]によって検地に甚《はなはだ》しい手心を試みたそれが勃発のもとなんで……」
 江戸老中派遣の、わいろ[#「わいろ」に傍点]を取る役人が出張して、思う存分に竿を入れる。そのくらいだから寛厳の手心が甚しく、彦根、尾張、仙台等の雄藩の領地は避けて竿を入れず、小藩の領地になるというと、見くびって烈しい竿入れをしたものだから、領民が恨むこと、恨むこと。そこで、これはたまらぬと、庄屋たちが寄り集まって、竿入れ中止の運動を試みようとしたが、そこはわいろ[#「わいろ」に傍点]役人に抜け目がなく、あらかじめ一切の訴願|罷《まか》りならぬという覚書を取ってある。しかし、領民たちになってみると、死活の瀬戸際だから黙っていられない、その鬱憤が積りつもって、大雨で水嵩《みずかさ》が増して行くように緩慢に似て漸く強大である。どこの村から、どう起ったかということは今わからないけれども、近江の四周《まわり》の山水が湖水へ向って集まるように、湖岸一帯の人民の不平が、ある地点へ向って流れ落ちて溢《あふ》れて来る。
 たとえば野洲郡《やすごおり》と甲賀郡の歎願組が合流して水口へ廻ろうとすると、栗田郡の庄屋が戸田村へ出揃って来る。勘定役人が甲の川沿いから乙の川沿いに行こうとすると、両の郡の農民が結束して集まるもの数千人、ことに甲賀郡西部方面から押し出した農民は、水口藩警固の間をそれて権田
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