た人間を探ることは、ちょっと手のつけようがないようなものだが、人間である以上は、その生命線のために、その肺臓の生理作用のために、いずれの地点にか再び浮び上らないという限りはありません。
 果して、数日にして、七兵衛の姿を、とある山路の岩の間に認めました。隠れることと、走ることのために生きているようなこの男は、追窮されて必ずしも窘窮《きんきゅう》するということはないが、人間の精力というものも限りのあるもので、そういつまでも、野宿と、草根木皮生活に堪えられるものではない。水中に沈んだ蛙《かわず》が、ある限度に於て、空気を摂取するために浮き上るように、人間らしい物質の慾望のために浮き上らざるを得ない。果して七兵衛は、この地点へ浮び上りました。
 この地点が、どの地点であるかということを、地理学的に説明するのは、今の場合、困難なことです。七兵衛は地上を走ることには馴《な》れているけれども、地理学の観念の甚《はなは》だ怪しいことは前に述べた通りであります。従って、そのかなり練達した方位なり時間なりの観念というものも、正確な科学的根拠から来ているのではないから、未経験の地に於ては、往々にして狂いを生ずることがありがちなのはやむを得ないのです。
 たとえば、星を力に、或いは木皮の苔《こけ》をたよりに、観念をつけてみるにしたところで、天気具合で、星のある晩ばかりがあるというわけではなく、木枝や樹皮にも、ところ変れば手ざわりの変ることもある。つい東へ走ったつもりで、西へ抜けてしまうこともあり、南へ行かんとして、北を忘れてしまうこともあるのです。足の覚えだけは極めて健全ですから、この腰骨に覚えたり、もう四五十里も来ましょうか――なんて洒落《しゃれ》はよく通用することがあるけれども、それを東経北緯によって確定することは不可能である。
 とにかく、この地点に浮び上った七兵衛は、もうこのおれの足で、このくらい走れば、相手は鬼であろうとも、仏であろうとも、当分その足がつくおそれがないことを確信したればこそ、かくは浮び上ったものと思われる。だが浮び上った七兵衛は、さすがに多少のやつれと、疲労とを見せている。百合《ゆり》の根を掘って食ったり、山栗の実を落してみたりしたところで程度がある。人里と名のつくところへ出て、火のかかった飯食にありつきたい、というのが、この際、第一の七兵衛の慾望であるらしく、七兵衛は、心しながら人里を求めて、この山間をそろそろと下りにかかりました。
 かくして、この男は山をめぐり、谷を越え、なるべく人の足の踏んであるような山径をえらんで、ふと一つの山の尾をめぐると、俄然として眼の前に賑《にぎ》やかな光景が展開されたものですから狼狽《うろた》えました。
 本来、人里をめざして来たものだから、人間臭くなることは覚悟の前でなければならないが、これはあんまり人間が賑やかに出来過ぎていたために、いったんは立ちすくんだけれど、もう、どうにもならない。
 山の尾をめぐって、ほんとに鉢合せでもしたもののように、眼と鼻の先に突き当ったのが天然風呂でした。沢になって小流れがあるところの岩と水の間を、無雑作《むぞうさ》に掘りひろげて、その中に赤裸《せきら》な人間が七つばかり、すっぽりと漬《つか》っている。しかも、それがみんな年の若い女ばかりでした。
 山の奥の温泉には、得てしてこういうところのあるのは、あえて珍しいことではないが、不意だものですから、七兵衛が狼狽《ろうばい》してたじたじとなったのですが、相手はさほど驚きはしません。
 不意に現われた七兵衛の姿を、ちょっと見やったばかりで、あとはいっこう頓着なく、思うまま湯気と湯とにつかって、おたがい同士、何をか賑やかに話し合っている。狼狽はしたけれども、こうなってみると、七兵衛は退却する必要もなく、また退引《のっぴき》はできない羽目になっている。
 七兵衛も、なにげなく、ちょっと挨拶のような真似《まね》をしただけで、その野天風呂を過ぎると小屋がけがある。その小屋がけに夥《おびただ》しい衣類が脱ぎ捨てられていると見れば、その小屋の向うの方にも同じような穴が掘られていて湯が湧いている。その湯の中には、今度は野郎ばかりが夥しく漬っている。
 度胸を据えて、そこの近くへ進んで行ったが、こちらが力《りき》むほど、先方はこちらを眼中に置いていない。七兵衛が来たって、来たかと言わない代り、来るなとも言わない。
 ここに於て、七兵衛も安心しました。これは何という土地か知らないが温泉地だ。この辺で温泉は珍しくないと見えて、別個に宿を構えて営業するまでのことはない。地を掘れば湯が湧いて出る、その湯に浸《つか》ることは誰に遠慮もいらぬことになっている。ただしかし、地方の農民たちは、天然に恵まれているからといって、時間には恵まれてい
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