蔵に移されると共に、前後も知らず寝込んだままです。
 かくて庵《いおり》の一室には、雨の日のつれづれを仮りの宿りの主としての弁信法師とは別に、二人の者がおのおのの両刀をからげて投げ出し、丸木の柱によりかかっている。その二人の者こそは、必ずや、昨夜ふいにおとずれた簑笠《みのがさ》のものであるが、果してどんな面《かお》が来たのかと、明るい光ではじめてうかがって見ると、この二人も、別に珍しい面ではありませんでした。すなわち昨日までは胆吹御殿に見えた不破の関守氏と、知善院に侘住居《わびずまい》の青嵐居士と二人が、ここで抜からぬ面を合わせているというだけのものです。
 さては、昨夜の簑笠は、この二人の者であったよな。但し何ほどのこともない、ひとしくこれ、湖水湖岸に程遠からぬところに住んでいる自由遊民である。それが、同じく程遠くもあらぬ湖中の一島へ来て、面を合わせるということは、有るべからざるに似た奇遇でもなんでもない。こうして見ると二人も、胆吹御殿で語り合わせた時の面と、別段よそゆきの面にはなっていない。あの時の呼吸で、悠々と調子を合わせている。不破の関守氏がまず言うことには、
「そもそも日本に於ては、兵と、農とは、二つの種の、二つの民族ではない、一つの物の、二つの変形に過ぎなかったのです、それが歴史の本筋でした」
「そうでしょう――さむらい[#「さむらい」に傍点]という言葉は本来、いつの頃から起った言葉か知らないが、少なくとも鎌倉幕府以前には、特にさむらい[#「さむらい」に傍点]という遊民はなかったようです」
「左様――事ある時は、兵はみな農より取ったものです、事ある時には兵となり、事無き時には農となる、それだけのものでしたね、その時代は」
「そうですとも、三浦、和田、畠山なんぞというと、素晴しい大名かなんぞのように聞えますが、今日の諸侯と比べたら大違い、実は皆、従来はその土地土地に拠《よ》った大百姓に過ぎなかったのです」
「左様、その大百姓が、それぞれ家の子郎党を地割のうちに置いて、一緒に百姓をしていたのですな。ところで、天下を取ろうとする者は、それぞれこの大百姓どもに渡りをつけると、その時の風の向き加減によって、三浦、和田、畠山といったような大百姓が、或いは源氏、或いは平家と、味方に馳《は》せ参じて、天下を取らせたり、取らせなかったりしてやる、天下を取らせたり、取らせなかったりしてやった後は、また郷に帰って百姓をする――といったのがあの時代の武家の制度でした」
「その通り――それが、現在のようにかっきり[#「かっきり」に傍点]と、武士と百姓がわかれてしまったのは、大なる不祥といえば、大なる不祥でした」
「そもそも今日のように、さむらい[#「さむらい」に傍点]と百姓とが、かっきりとわかれてしまったのは荻生徂徠《おぎゅうそらい》の説によると、北条時頼の時代からだそうです」
「北条時頼から始まったと、そう明確に線を引いてしまうわけにもいくまいが、いずれは鎌倉の中期頃、天下に漸く事が多くなって、屯田《とんでん》の農民ばかりではやりきれない、どうしても常備兵というものの必要に迫られて来た時から始まったのでしょう。かくて、世が乱れるにつれて兵の需要が増し、同時にこれを司《つかさど》るものの威力が増大して来ました。兵が勇敢となり、威力が加わって来てみると、悍然《かんぜん》として身命を賭《と》して外敵に当るものの風采が、颯爽《さっそう》として、勇ましく見える、土にかじりついて耕作をする人間の姿が、いたましくも、みすぼらしくも見え出してくる、そこで武士は選ばれたる優越階級となり、農民は落伍せる下積階級のように見え出してきて、やがて最も鮮かに兵農が分離してしまいました」
「兵は農より出でて農を軽んじ、農は兵を出だして兵を恨むの事態が醸《かも》し出されたのは、不幸です」
「御尤《ごもっと》もです、古《いにし》えは兵が農を守りました、今は兵がことごとくさむらい[#「さむらい」に傍点]という遊民になりました。この遊民を威張らせ、養って行くために、農が十重二十重《とえはたえ》の負担をしなければならない、さむらい[#「さむらい」に傍点]という遊民を食わせて、これに傲慢と驕奢《きょうしゃ》を提供する役廻りが、農民の上に負わされて来たという次第です」

         三十九

「まずそうです、例を徳川氏にとってみましょう、徳川家がいわゆる旗本八万騎を養成した当時には、養成すべき理由がありました、そのいわゆる八万騎によって海内《かいだい》を平定して、三百年来の泰平を開いたのです」
「左様――それは認めなければならない、同時に、徳川家に対してのみ承認すべきではない、三百諸侯が、大小となく、皆それぞれ相当の士を養って、おのおのの領土を安泰にし、そのまま徳川家にぶらさ
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