人なら、心配はありませんよ」
「では、宿のおかみさんか誰か」
「宿のおかみさんというのは、まだ若いのです」
「若くったって、かまわない」
「こちらはかまわなくても、あちらがかわいそうです」
「どうして」
「どうしてたって、あなた、あなたという人は、人の若いおかみさんが好きなんでしょう」
「何を言ってるのだ」
「わかってますよ。それに、この宿のおかみさんは、若くて、愛嬌があって、上方風の美人なんです」
「それがどうしたというのだ」
「そればかりじゃありません、ここは近江の長浜というところですよ」
「長浜はわかっている」
「そうして、この宿は、長浜の浜屋という宿なんです」
「それも、前から聞いて、ようくわかっているよ」
「そればかりじゃないのです、その若いお内儀《かみ》さんの名前が浜っていうんです」
「え」
「驚いたでしょう、そのお内儀さんを、あなたのところへ出せますか」
「うむ――」
「どうです、そう聞いているうちに、そら、もうあなたの血の色が変ってきました、かわいそうに、これでもう、この宿のお内儀さんが見込まれてしまいました。わたしという人も、うっかり言わでものことに口を辷《すべ》らしたために、また一つの殺生をしてしまいました。これではとても、ここへひとり残して置くわけにはゆきません。といって、この人をわたしが連れて、白昼どこへ歩けますか、夜更けにはなおさらあぶないものです」
二十四
胆吹の新館のお銀様の居間で、お雪ちゃんが頻《しき》りに桔梗《ききょう》の花を活けている。
お雪ちゃんとしては、お銀様に出し抜かれて湖水めぐりをされてしまったようなものの、それでも心からお銀様を恨むということも、憎むというほどのこともあろうはずはなく、今では充分の好意をもって、その不在の間にお花を活けて、床の間への心づくしをして置いて上げたいという気持にまでなっているのです。
思うようには活けられないけれど、せめてお銀様に笑われないように――ああも、こうも、と枝ぶりに精をこめている間に、つい我を忘れる気持にまでさせられてしまいました。芸術的気分とでもいうものでしょう――無心になって花を活けていると、その後ろから、不意に物影が暖かくかぶさりましたのに、無心の境を破られて、はっと見向くと思いがけなく、自分の背後にお銀様が例の覆面のままで、すらりと立って、こちらを見
前へ
次へ
全183ページ中37ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング