りません、濡手拭と百姓は、絞れば絞るほど水が出る――最後の一滴まで絞るように慣らしてしまったのですな。徳川氏の対農民政策はその通りですが、その俑《よう》を作って与えたものは豊臣秀吉なのです。ことに徳川氏は少なくとも城主大名の家に生れたのですが、豊臣に至っては、尾張の中村の純粋なる農民の出であるにかかわらず、農民の地位を向上せしめず、これを奴隷以下に置くことの俑を作りました。もし、農民が目下の検地の残忍刻薄を恨むならば、当然、遡《さかのぼ》って徳川家康を恨まなければならない、家康を恨む以上は、秀吉もまた同罪のみかは、同罪以上の元凶であることを恨まなければならない理窟になるのです」
青嵐居士は、自分がこういう意見の所有者ではない、広く歴史を読んでいる間に、こういう史上の事実を掴《つか》み出でて語るものらしい。すると不破の関守氏も、その説には相当共鳴するところあるものの如く、
「秀吉は農奴から起って関白に至ったということは、争うべからざる素姓《すじょう》と考えますが、家康とても必ずしも、生え抜きの城主大名とはいわれますまい。近頃、ひそかに研究した人の説によると、彼は農民よりもなお賤《いや》しい、乞食の徒、願人坊主《がんにんぼうず》、ささら売りの成上りだということであります」
「ははあ、それは新説です、徳川家康の幼名竹千代、岡崎の城主松平広忠の公達《きんだち》というのでなく、願人坊主、ささら売りの成上り……それは果して根拠のある説ですか」
「当人の研究によると、なかなか根拠があります、つまり、その説は……」
十九
不破の関守氏は、村岡融軒著「史疑」と称する一書を取って、青嵐居士の前に置いて言いつづけました、
「この書物は、相当丹念に研究して成ったもので、面白い説ですから、拙者は要領をうつし留めて置きました、お暇の時に御一覧下さい。而《しか》して要するに、徳川家康の真実の素姓を突留めんとした書物でありまして、結局この著者の研究の結果は、家康は簓者《ささらもの》の子であって、松平氏の若君でもなんでもない、十九歳までは乞食同様の願人坊主であった、それが、正銘の松平の曹司竹千代が駿府《すんぷ》に人質となっているのを盗み出し、それを信長に売り込んで、出世の緒《いとぐち》を開いたのだという説です……」
「ははあ、そういう新説は今まで聞きませんでした、それだけの
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