仕損ずる。
伊太夫は、それを藤左に向って考えさせている。
十六
草津の辻のグロテスクな晒し者は、多くの方面にいろいろの衝動を捲き起したが、意外千万なことには、その翌朝になると、「ちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]」の罪人として晒された宇治山田の米友の姿は、晒し場から跡を消して、そのあとへ別に一つの「梟首《きょうしゅ》」が行われました。首が晒されているのです。つまり、生きた人間を縛って曝《さら》す代りに、人間の首を切って、そうしてそれを梟《さらし》にかけました。
さては――と人だかりの中に、血相を変えたものもありました。と、そのうちには、あの無言のグロテスクも、とうとう首になったか、ともかくも生きて晒されている間はまあいいとして、首を斬られて「梟首」に行われるようでは、もういけない。
あれほど、いきり立ったお角さんはどうした。
そのところに、まさに右の如く人間の「梟首」が行われていることは事実に相違ないが、よくよく見直した時、いずれも失笑しないものはありません。
「あっ! なあーんだ」
人間の首がさらされているには相違ないけれども、その首というものが甚《はなは》だ無難なる首でありました。
木像なのです。木像の首なのです。しかもその木像の首たるや、ほぼ普通人間の三倍ほどある分量を持っていて、木質だけはまだ生々しいのに、昨今急仕立ての仕上げと見えて、その彫刻ぶりが、荒削りで、素人業《しろうとわざ》が、たくまずして七分は滑稽味を漂わせている。
しかしながら、とにかく、人間の形をした首は首です。その首が、昨日までは米友が全身を以て生きながら晒されておったところに、置き換えられている。しかも、その首を、なおよくよく見るとまた見覚えがある――誰でも相当見覚えがある。束帯《そくたい》こそしていないけれども、冠《かんむり》をかぶっている。その冠も、天神様や荒神様のかぶるような冠ではなく、世に「唐冠《とうかん》」として知られている、中央に直立した一葉があって、両翼が左と右に開いている。古来この冠をかぶった画像、木像に於て、最も有名なのは「豊臣秀吉」である。ことにこの附近は、秀吉の第二の故郷として、その功名《こうみょう》の発祥地と言いつべきですから、この「唐冠」の太閤様は、ほぼ児童走卒までの常識となっている。
「やあ、太閤様が晒し首になっている」
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