あの女親方が、ああ張り切るのはよくよくのことだろう――何とかしてやらずばなるまい、お前、とりあえず支配地の籍を調べて、役人の筋を辿《たど》って、ひとつ穏かな助命運動ができるものなら、至急その道を講じてもらいたい」
 家来の藤左に向って、伊太夫がこのことを申しつけると、藤左は心得て、宿元からして急速に調べ上げた情報が次の如くです。
 この地に長谷久兵衛《はせきゅうべえ》という鬼代官がいる。名代《なだい》の農民いじめで、年貢不納のものは遠慮なく水牢に入れる。厳寒の節に水の中に立たせる。泣き叫ぶ声が通路まで聞えて、人の身の毛をよだてる。女房娘は遠慮なく身売りをさせたり、自分が没収したりする。たまり兼ねて瀬田の橋から身投げをして果てる男女が続々と相つぐ。
 草津の辻の晒《さら》し者《もの》も、江戸老中差廻しの役人がさせたのか、この地の役人がしたのか、それはよくわからないが、ともかく、この久兵衛が悪い。久兵衛のさしがねでなければ、その献策に相違ない。なんでもかんでもその長谷久兵衛が鬼代官だという情報が、どちら方面からも、期せずして伊太夫の手許《てもと》へ集まって来る。
 してみると、長谷久兵衛なるものは、悪辣《あくらつ》であるだけに権者《きけもの》である。なんにしても、こいつを押えてかかるのが有利だと伊太夫が覚りました。
 押えてかかると言ったところで、力を以て押えてかかるわけにはゆかない。手段方法を以て、この代官から理解してかからぬことには、事は運ぶまい。その代り、この代官の理解さえ届けば、必ずや相当の緩和方法があるに相違ないということに伊太夫が合点して、とりあえず、家来にその運動方法を命じたのです。
 運動方法といったところで、今の場合、さし当り特別の手段方法があるべきはずはない。伊太夫の持てるものとしての力は、その財力です。微行《しのび》で旅に出たとはいえ、甲州一国を押えている力は何かにつけて物を言う。金力が時、所を超越して、権力以上に物を言う場合が大いにある。伊太夫の取り得べき手段方法としては、その有り余る金力を、有効に行使してみる側面運動のほかにはないでしょう。
 しかし、いきなり小判で鼻っぱしを引っこするような真似《まね》はできない。手蔓《てづる》のない、しかも焦眉の急に応ずるための財力の発動としては、その方法に、相当微細にして巧妙なるものがなければ、かえって事を
前へ 次へ
全183ページ中23ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング