癪だが、これは地の利で仕方がねえ、こっちは案内知らずの他国者、相手は兎の抜け道まで知っていようという土地ッ子だ、ことに手先や子分が到るところに網を張っている、この道をこう追い廻せば、いやでもこの壺へ落ちるくらいのことは蛇《じゃ》の道でなくても心得ている、そこへがむしゃらに追い込まれたこっちは、まア運の尽きというものだ、足に覚えはあるから、走ることは走るといったところで、こっちは勾股《こうこ》を念入りに曲って走っている間に、あっちは弦《げん》を直走して先廻りと来りゃ、網にひっかかるのはあたりまえ、こっちの抜かりじゃあねえ、向うが明る過ぎるのだ。
 だが、そんな負惜みは、こうなってみると通らない、眼前に敵が大手をひろげていようというものを、癇癪玉だけでは済まされねえ、もうこうなっては、一かバチかあるのみだ、どう考えても、七兵衛まだこの辺で年貢を納める気になれねえのだから、こう手が廻っては仕方がねえ、へたに分別して、後手《ごて》を食っちゃあ万事おしまい、そこで、七兵衛は手拭を鷲掴《わしづか》みにして、すっくと湯壺の中から立ち上りました。
 まず、何はおいても裸で道中はならない。手早く、身近に脱ぎっぱなしてあった、団体客のうちから一人の衣裳を奪って、まず切りたての六尺木綿から手早く身に引っかけて置いての芝居と、立ち上ったところを、先方もさるもの、パッと一度に水煙、ではない、湯煙を立てて、
「御用だ!」
 果して、胡麻塩頭の左右に遊弋《ゆうよく》した五つ六つの水瓜頭《すいかあたま》が、むっくりと立ち直って、七兵衛めがけて殺到して来ました。

         七十五

「ふざけやがるな」
 七兵衛は左手で手拭を持って前を囲いながら、右手で有合わす小砂利を拾って眼つぶしをかけてみたが、それは、さのみ自衛にも、脅威にもなるほどの武器ではありませんでしたが、一時《いっとき》相手がたじろぎました。
 その隙に――団体客の衣服を取って、せめて六尺の晒木綿だけでも身にひっかける余裕がなかったのです――かねて眼はくれていたのだが、五六の相手にやにわに飛びつかれてみれば、その目ざしていた衣裳場の小屋がけまで駈けつけるの前途を塞《ふさ》がれてしまったようなものです。
 ここで、長兵衛以来の珍しい湯壺の乱闘。あれは水野の屋敷で、どこまでも芝居がかりに出来ているが、これは青天白日の下、野天風呂の中
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