きも、筆を持たせれば、相当なことはするけれども、船をあずけられては手も足も出ない、その他、乗組の連中、この点に於ては、世界をまたにかけているあのマドロスには逆立ちしてもかなわない。しかし、技能は技能として、船の風紀は風紀の問題です、船の統制上、その風紀を紊乱《びんらん》した奴を、安閑としてそのままには置かれないのは当然です、拙者に於ても帰来早々、断然たる放逐処分を貴君に進言するつもりで意気込んで戻って来たのですが、あいつの操縦の腕を見ると、不覚千万にもその意気込みが少々鈍ってきたのです。どうです、駒井船長、むしろこの際、眼をつぶって、あいつをゆるしてやって、新たに任務を励行させるようにしたら」
「拙者にとっては、許すも許さんもないが、船の乗組全体が、あれに対して、一人も好意を持っておらんのです、毛唐のくせに、日本の女を自由にして、誰はばからず痴態を演じている、それを朝夕見聞して、他の乗組が不平を鳴らすのは無理もない。船長として、船の風紀の上から、あのままにして置くことはできない、それをしないでいると、拙者の威信問題よりも、あいつの一命があぶない、早晩、多数から私刑を受けて、海中へ投げ込まれるくらいのことは、目前に起り兼ねないのだ――船が宮古へ着いた上で、相当の断罪が行われなければなるまい」
「それは、そうなければならぬこと――だが、彼を失ってこの船が動きますか」
「本来、期待していなかった人間だから、彼なしといえども、やれなければならない性質の我々の船なのです、何とか動かないはずはないと思っている」
六十三
駒井船長の答えに満足せぬ田山白雲は、
「それはいささか心細い、本来、洲崎海岸《すのさきかいがん》を出るにしてからが、事態に迫られて出たので、準備完了して出たわけではない、昨今、月ノ浦を出たのも同様なのだ、この辺で、未熟な機関方の手にかかって、魚の骨をのどへひっかけたような醜態を演じては、世間の物笑いのみならず、一船全体の生命問題になるでしょう」
「それはわかっている、我々と従来の手勢でも、やってやれない限りはない、絶望というほどではない。やってやれない限りはないと思っているが……」
「しかし、あのウスノロの真似《まね》はできませんな、あのウスノロがやる通り、この通り滑らかに船を運用することは到底不可能でしょう。あいつならば、どんな悪天であ
前へ
次へ
全183ページ中112ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング