けれど、やっぱり駄目でした。
お雪ちゃんは、焦って、棹をあちらこちらへ入れてみたけれども、そのいずれにしても手ごたえがありません。
「先生、どちらもさおが立ちません」
悲観絶望した途端に、はっと竹の棹が手を辷《すべ》って、湖の中へ流れ出してしまいました。
それを捉えんとする手はもう遅い。
「あら、あら、棹《さお》を取られてしまいました」
もう泣き声に近かったのですが、竜之助はそれを慰めるもののように、
「棹を取られたのは仕方がない、人間を取られてはいけません」
「わたしは大丈夫です」
とお雪ちゃんは、うわごとのように言って、悠々と、あちらを独《ひと》り泳ぎをはじめている水馴棹《みなれざお》の形を見つめて、ぼんやりと立っていましたが、やがて、その面に、自暴《やけ》に似たような冷静さが取戻されて来て、
「もう、どうにもなりません、流れ放題……」
五十八
それからあとのお雪ちゃんは、もう櫓《ろ》にも櫂《かい》にも全く未練のない人になりました。
落着いて、じっと漂う舟の行先をわれと見つめて、うっとりしたような形で、竜之助に背を見せておりました。
静かに、滑《なめら》かに、うるおいながら、湖面を音もなく、誰も押す人もなく、さえぎる人もないままに、ゆっくりと、心ゆくばかり漂い行くわが舟の舳先《へさき》を、われと見送っているうちに、全くうっとりした気持になって、右の手を後ろへ軽くささえた時に、左の手は、いつのまにか振袖を掻《か》き上げて、それで口を覆うておりました。この形は、よそから見たら、消えも入りたいような、恥かしさの形に見えますが、お雪ちゃんその人からいうと、有心無心の境を過ぎて、わが行く舟の舳先にうっとりしているばかりです。
そのうちに、天地は、磨ぎ水を流したような模糊《もこ》とした色で、いっぱいに立てこめられました。月は隠れたのではないが、この白色の中に光が、まんべんなく溶け込んだものでしょう。舟は、進んでいるのか、とどまっているのだか、ちっともわかりませんが、漂うてはいるのです。膠着《こうちゃく》しているのではない、浮かれ、うらぶれ、漂いながら、一つところのような湖面に戯れているらしい。
そうして、やや長い時の間、お雪ちゃんは感きわまって、
「死にたい、死にたい」
と、すすり泣きをしました。
「このまま死んでしまいたい」
「そん
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