持にされてしまうことさえ時々あるのですね。お銀様が、こんど長浜へ来たら、わたしに丸髷《まるまげ》を結わせるとおっしゃいました。あの方のおっしゃることは、私たちの頭では想像もできませんけれど、もし、丸髷にでも結って、こうして、この間へ一人、小さいのを置いて、そうして、水入らずのお月見をしたら、どんなに楽しいでしょう」
お雪ちゃんは、子供が甘い夢を見るようにあこがれ出したが、竜之助は動かない。久しぶりの酒の香にうっとりして、我を忘れたものか、酒がこぼれて膝に落つるのも知らないでいると、お雪ちゃんがたまらなくなって、
「先生、わたしにばかり、言いたいことを言わせて置いて、ひどいわ、あなたも何とかおっしゃいよ」
と言って、竜之助の面《かお》を見た時に、
「あっ!」
と言いました。無論、同時に自分の面の色も変ったことでしょう。竜之助は盃《さかずき》を挙げたまま、蝋人形のように白くなって動かない。
「…………」
「先生、大変、いつのまにか舟が沖の方へ向って流れ出しております」
お雪ちゃん一人が狼狽《ろうばい》しきって、立って水棹《みさお》を手さぐりにして、かよわい力で、ずいと水の中へ突き入れてみますと、棹はそのままずぶずぶと水に没入して、手ごたえがありません。
舟は、いつしか遠浅の圏内を外れて、棹の全く立たないところへ来ている。
「あら、先生、どうしましょう、棹が届かなくなりました」
「どれどれ」
竜之助は立って、塚原卜伝でもするもののように、お雪ちゃんの手から、棹を受取って、ずぶりと差し込んでみたけれど、手ごたえがありません。
憮然《ぶぜん》として、見えない眼で水の上をながめている。
二人が月に興じている間に、舟は、棹の立たないところへ来てしまったのです。
舟が棹の立たないところへ来たとすれば、櫓《ろ》を用うるに越したことはないが、この舟には出立から櫓も櫂《かい》も備えて置かなかった。備えれば備うべきはずのものを、櫓を用いないで済む程度のところ、棹を以て用の足りる範囲のところで、浅く遊んで帰ろうとした予定のところを、環境が別になったために、身心ともに知らず識《し》らず深入りしているうちに、舟は独自の漂流をはじめて、深いところへ来てしまっている。
二人が狼狽したのも無理はありません。
竜之助のさし置いた棹を、お雪ちゃんが、取り上げて、またこちらの水に入れてみた
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