の場所で起りましたな。わかりました、この島は静かなりといえども、湖水の水が騒いでいるからであります――山は動かないが、水は動いているものですから、この心が落着きません」
と言って、せっかく組み直した正身の座をほぐして、弁信法師はまた以前の縁側の方へ出て、今度は有らん限りの四周の湖面を、ずっと見廻しました。見廻したといっても、この人は天性、肉眼の見えない人であることは申すまでもありません。四方の湖面に眼を注《そそ》いだと言いたいが、頭を注いで、そうして、今度は水に向って物を言いかけました、
「この通り、湖中の水が騒いでいるものですから、それで、私の心が落着かないのです。なぜ、こうも湖水の水が騒いでいるのかと考えますると……」
 ここでまた、小首を傾けて、懸崖|遥《はる》か下の湖面へ耳をくっつけてみるような形をしましたが、その言うところは変っています。事実、水が騒ぐ騒ぐと弁信は口走っているが、見渡すところ、今日はこの青天白日で、ほとんど風らしい風は吹いていない。多景島の竹も枝を鳴らさず、湖面全体の水面は至って静かで波風が騒がない。平和なものです。その平和な海に向って、弁信はしきりに、水が騒ぐ騒ぐと言っている。平和な水こそいい面《つら》の皮で、事実、水が騒ぐのではない、彼の心が騒ぐのにきまっている。

         三十五

 こうして、この法師は、水が騒がないのに、われと我が心をさわがしている。そうして、わがさわぐ心を以て、その罪を水に向って被《かぶ》せている――それのみではない――
「湖水の水が、かくもあわただしく騒ぐのは……つまり、湖岸が穏かでないからです」
と、今度はその責めを岸へ向ってなすりつけにかかりました。
「湖水の沿岸が穏かでないから、それで湖水の水がかくまで騒がなければなりません、水が悪いのではなく、岸が悪いのです」
 わが心の動揺を見事に、沿岸へ向ってなすりつけてしまいました。湖面が青天白日の平和な光景である限り、沿岸だけが黒風白雨の天気に支配されるというはずはない。然《しか》るにこの小法師は、かくも平和な湖面に向って騒擾《そうじょう》の罪を着せると共に、今度は、その罪を沿岸に向ってなすりつけてしまったが、波風の及ぶところはそこで止まるのではありません。
「先刻から、湖南湖北の巷《ちまた》の風説に聞きますと、この沿岸の村々がことのほか物騒がしいそう
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