りますが、貴老に至っては、もはや、せっかく御奇特の儀お見届け申したるにより、残らずお目にかけようと思いますが、何を申すも、夜分ではやむを得ないによって、明朝に至って、ゆっくり御案内を申し上げる、まず今晩は、むさくるしけれど、当屋へ御一泊あってはいかがでござる」
 こうまで言われて、辞退するような道庵ではありませんでした。
 道庵を一室に寝《やす》ませた青嵐は、また炉辺に寄って来て、燈を剪《き》って、ひとり書物をひもどきはじめました。何の書物をか、青嵐がしきりに読み耽《ふけ》っている一方、早くも熟睡に落ちた道庵の鼾《いびき》の音が高い。
 かくて湖上湖畔の夜は更けて行く。まさに書を読み、茶を煮るに堪えたる好夜だが、米友の行方だけが、少々気がかりにならぬではない。

         百九十四

 だが、それも案ずるほどのことはない、宇治山田の米友は、今、確実に湖畔の町の夜を歩いている。
 夜といっても、それは月の何日に位するかは明瞭でないとしても、お銀様が胆吹の山をそぞろにさまよい出でた時分が、繊々たる鴉黄《あおう》を仰いで出でた当分のことですから、宵にちらりと月影を見せたばかりの闇の夜なのであります。
 青嵐の言うところでは、この静かな湖畔の町にも、何か殺気というようなものが漂っているそうだが、米友は実はその殺気をさがし求めて、こうして歩いているのだ。
 といっても、青嵐のいわゆる殺気というやつと、米友がめざして歩いている殺気というやつとは、全然、その存在と名目を異にしているかも知れない。少なくとも、青嵐のいうところは、ある一定の発源地とか、対象とかいうものが存しているのではなく、民心の鬱結がおのずから相当の殺気というものを孕《はら》んで、禍機が不可思議の辺に潜んでいるらしい意味に聞えましたが、米友は、そんなような漠然たる妖気を見破らんがために歩いているのではない。彼のたずね求めんとするところには、おのずから一定の目当てがある。そのとらえんとする殺気は、凝って一つの物影として存している。
 その物影とは何物ぞ。よく問題になる例の暴女王、お銀様の放漫を戒めんために出動したのか。それもそうであって、必ずしもそうではない。お銀様は放逸に、山を出て来たもののようだが、彼女は米友から制馭《せいぎょ》さるべき地位にある女ではない。かえって、米友が統制を受くべきほどの略と権とを持った女だ。米友がたずね求めんとする殺気はそれではない。彼は、お銀様以前に、セント・エルモの火に送られて山を出た、その黒い覆面の怪物を抑えようとして下りて来たのです。彼をしてもうこれ以上に犬を斬らせまいとして、その慈悲心から、山を下って、そうして湖畔の町を、今日も、昨日の晩も、あさり歩いている。
 江戸の本所の弥勒寺長屋《みろくじながや》に、同じ釜の飯を食って以来、いや、もっと早く言えば、甲府城下の如法闇夜の時以来、あの覆面の怪物の夜な夜なの出没の幻怪ぶりを満喫していること、この男の如きはない。自らもその幻怪の誘惑に堪えられなかったが、それがまぼろしの出没である間はよろしい。右の怪物が、じっとして立ち止まった時に、罪もない人間の血の幾斗幾升が、空しく地中に吸い込まれ、その肉体がうつろにされて、地上に累々たる酸鼻には堪えられたものでない。せめて、この、おとなしい湖畔の町だけには、もはや再び、あの甲府城下、弥勒寺長屋時代の陰惨な絵巻を繰りひろげて見せたくはないものだ。
 もう、たいがいにして、あの刀を鞘《さや》に納めさせたいものだ。そうするのが、彼の後生《ごしょう》の幾分でもあるし、第一、この罪も報いもない北国街道筋の古い町の、何も知らない民衆が気の毒だ。
 ナニ、人は斬られないが、犬が斬られた? 人間ならばたまらないが、犬ならばいくら斬られてもよろしいという理窟があるか。
 犬を斬る刃《やいば》は、人間を斬る刃なのだ。斬るべき人間にでくわさなかったから、やむなく犬を斬ったのだ。その惨虐の程度に於て、あえて相違があるものか。

         百九十五

 わが親愛なる宇治山田の米友は、こういう殊勝な慈悲心をいだいて長浜の町の夜を、ひとり物色して歩いているということは、誰も知るまい。
 青嵐のいうが如く、この静かな町の中にも、富豪の圧制を憎む細民がいるかいないか。検地の代官を呪う一味徒党の片われがいるかいないか。また、水争いの公事《くじ》を、この辺まで持込んで、待機の構えでいる附近の農民が隠れているかいないか。或いは尊王攘夷《そんのうじょうい》が、海道の主流を外れたこの辺の商業地の間にまで浸漸して来ているかいないか。そんなことは米友としては知りもしないし、知ろうともするところではない。
 彼としては、もはや、人間にせよ、畜類にせよ、およそ生きとし生けるものの、その一つをでさえも、これより以上に刃に衂《ちぬ》らせたくはないのだ。
 さりとて、夜の町を行くのに、ことさらに人の目に立つようにして歩く馬鹿はない。その点において、米友も、弥勒寺長屋以来、相当に心得たもので、その俊敏な小躯《しょうく》を、或いは軒の下、天水桶の蔭、辻の向う前、ひらりひらりと泳いで渡る机竜之助の如く、戸の透間から幻となって立ち出づる妖術(?)こそ知らないが、米友としても、天性の達人である、心得て歩きさえすれば、滅多なものに尻尾をつかまれるような歩き方はしない。それにしても近日の動静に徴して、町に於ても相当に警戒の試みられてあるべき晩なのに、存外穏か過ぎるのは、本来、商業地としての当地は、警戒ということが深ければ深いほど、空騒ぎをしない。内に於ては、戸を深く鎖し、役人、町内の自警団にしてからが、徒《いたず》らに手ぐすね引いて、目に見えない殺気そのものよりは、目に見える警戒ぶりに於て、かえって人気を聳動《しょうどう》せしめるような、心なき陣立てはしない。そこはさすがにその昔、太閤秀吉が鎮《しず》めて置いた土地柄とでもいうものか。ただ、時々の夜廻りは、水も洩らさぬように粛々と練って行く。それも極めて規則的であり、時間に於ても、ほとんど一定の節度がある。それを程よく、やり過しさえすれば、無人の境を歩くと同様な静けさの中を、米友は飛び歩いている。
 彼は、前の晩に犬の斬られたという大通寺の門前のあたりも、それと知らずして通り過しました。町から町、辻から辻、江戸に於て本所、深川、永代、両国を、はてもなくつけつ廻しつ、さまよい出した経験を有するこの男にとっては、長浜の町は甚《はなは》だ狭い。奥へつき進んだつもりで、かえって湖畔へ出たりしてしまいました。
 湖畔に立って、烟波浩渺《えんぱこうびょう》たる湖面の夜に触れると、そこにまた、この男特有の感傷に堪えられないものがあって、
「おい、琵琶を弾《ひ》く、めくらの、お喋《しゃべ》りの坊主やあーい、離れ島にたった一人で残された坊主――無事でいるか、やあい」
 こう言って、また慌《あわ》ただしく町の方へとって返して、前の如く軽快に、用心深く、深夜をあさってみたが、幾時かの後、町の辻の中央で、ぱったり足をとどめたかと思うと、急に飛び上って、地団駄を踏み、
「そうら見ろ、言わねえこっちゃあねえ」
 果して、果して、米友の睨《にら》みつけた町の大路の真中に、人間が一人、まさに斬られて倒されている。

         百九十六

 だから、言わないことじゃあない。こういうことがあってはならないために、こういうことをあらざらしめんがために、このおいらという人間が、よる夜中、こうしてところを嫌わずうろついているのだ。酔興で、昨日の晩も、今日の晩も、こうして眠い眼をこすりながら、ほうつき歩いているというわけじゃあねえんだぞ。
 人間と名のつくものの一人でも、地獄へは落したくねえんだ。罪のある奴に、このうえ罪を重ねさせてやりたくねえければこそ、このおれはこうして、あてどもなく飛び歩いているんだぞ。
 人の心も知らねえで、こいつがまた、こりゃ、どうしたというもんだ。口惜《くや》しいぞ、残念だぞ、もう一足早かりせば、ちぇッ、この足め!
 米友は、ついに自らの足を憎んで、その足をもって、したたかに大地へ打ちつけました。この男、得意の地団駄です。得意のといっても、誰しも好んで地団駄を踏むものはない。地団駄というものは、残念無念の表情のやり場がなくて、大地に人間がわれと我が足をぶっつけて、遣悶焦燥《けんもんしょうそう》する時に起る挙動なのです――内に燃ゆる義憤があって、その義憤が適当なはけ場を見出し得られないためしの多い米友は、常に地団駄を踏んで、わが力の足らざることを、大地に向って強訴弾劾《ごうそだんがい》するのならわしを持っている。
 今やまた、せっかくの心づくしが水の泡《あわ》となって目前に現出している。よって、米友が歯噛みをして大地を踏み鳴らしている地点というものが、ちょうど、これが湖畔の町に於ても目抜きの巷《ちまた》でありました。
 一方に、当地第一等の富豪、下津伝平の屋敷の堀が広々とめぐらされている。その向うにはかなり広大な絹取引の会所の棟《むね》が横たわっている。大商店が倉を並べている。大きな旅籠《はたご》の中に、最もすぐれた浜屋というのが、塗りごめの戸袋壁に、夜目にもしるきほどの屋号を黒い塗壁に白く抜いている。この浜屋――というのが、以前から問題の、この中に覆面の怪物が二個いて、その間へ頬かむりのやくざ者がはさまった、前の晩の出来事の、その陣屋まがいの、だだっ広い構えなのであります。
 ここまで来て、眼前に横たわっているのが人間の死骸であることを、夜目にも紛れなく認めた瞬間に、かくばかり激憤した米友も、やがてやや血気を静めて、そうして斬られている当人の果してなにものであるかの検討にとりかかりました。
 二足三足と近づいて見ると、斬られた奴はうつぶしに倒れている。そうして、背中には何物かを背負っている。うつぶしに倒れているから、一見しただけでは人相そのものはわからない。その背中に背負っているものは――背負っているというよりは、背負わせられているといった方がよろしい、背負わせられているというよりは、むしろ背中へ結びつけられた、という変な取合せで背中に背負わせられているのは、よく高札場《こうさつば》にあるあの立札なのであります。高大な立札を背負わせられたまま、前へのっけに突伏している形ですから、また見ようによれば、人間が高札に押し潰《つぶ》されているようなもので、人間そのものを検視する先に、「さあ、もう一ぺん読め!」と高札をつきつけられているような形です。

         百九十七

 その時、米友の頭へピンと来たのは、この高札がまた只《ただ》ものではない、それはもとより、人間一匹を押しつぶして、息の根を止めているくらいの高札だから、只の高札でないことはわかっているが、この只者でない高札にもまた、一応見覚えがある! と米友の頭に響かざるを得なかったのは、これも先に、生活品の買出しに長浜へ来た時に、札場で見たあの高札――念のために、その時うろ読みに読んだ文章を再現してみると、次のようなものでありました。
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   「定
何事によらず、よろしからざることに、百姓大勢申し合はせ候を、とたう[#「とたう」に傍点]ととなへ、とたうして、しひて願ひ事企てるを、がうそ[#「がうそ」に傍点]と言ひ、あるひは、申し合はせ、村方立退候を、てうさん[#「てうさん」に傍点]と申す、他町村にかぎらず、早々其筋の役所に申し出づべし、御褒美として、
 とたうの訴人  銀百枚
 がうその訴人  同断
 てうさんの訴人 同断
右之通り下され、その品により帯刀苗字も御免あるべき間、たとひ一旦同類になるとも、発言いたし候ものの名前申し出づるにおいては、その科《とが》をゆるされ、御褒美下さるべし……」
[#ここで字下げ終わり]
云々《うんぬん》の心覚えを、米友が思い返して、
「うむ、あの、あれだ、あれだ」
と合点《がてん》したが、合点のゆかないのは、あの時、あの高札場高く揚げて、何人
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