のがあって、それと土地の者とが衝突して、その巻添えを喰ったために、米友の連れて来た馬が逸走して、それを米友が追いかけて、ついに姉川の古戦場の川原まで行ってしまったことがある。その川原の真中まで馬を追い込んで見ると、その両岸に群集が群がって殺気を立てている。おいらと馬をおどかすにしては、あまり仰山なと思っていたら、両岸の百姓たちが水争いをするのであった。両岸の村民が水口《みなくち》を争って、あわや血の雨を降らそうという時に、水門の上へ悠々と身を現わして、仲裁を試みた上に、双方の代表を引具《ひきぐ》して引上げた編笠の浪人が一人あったのだ。
 あの人だ、あの人が、つまりこの人なのだ。そう思って見れば、いよいよ背恰好がそっくりである。それに相違ない、と米友は見込んでしまったが、さて、あれから、あの納まりはどうなったのだ。まるで戦争でもはじまりそうだったが、それでも無事に済んだらしいのは結構だが、その納まりをつけたこの人が、ここではあんまり暢気《のんき》過ぎるというような感じもして、とにかく、変な人だと思いつつあとをついて、宇治山田の米友はほどなく、とある一種異様な門構えの前まで来ました。
 その門というのが、さして大きな門ではないが、その構造が全く変っている。室町時代に於て見る四脚門のような形をして、古色もたいていそれに叶っているから、好古癖のあるお銀様でも来て見れば案外の掘出物を見つけるかも知れないが、米友には、少し変った門だなと思っただけのものでした。
 導いて来た釣竿の浪人は、この門から入って行くと、中は、ささやかな庵寺です。
「これでも、お寺だな」
と米友が思いました。その庵寺の一方の庫裡《くり》というようなところへ来ると、浪人が、無雑作に隣の家へ言葉をかけました、
「帰りました」
「お帰りなさいまし」
 隣家から老婆の返事です。そこで、庵寺の庫裡のようなところを開いて、浪人が中へ入ったものですから、米友も続いて入る。
 室内は、存外|凝《こ》った茶室まがいに出来ている。続く座敷が狭いようで存外広い。
 それから二人は、小炉を囲んで、浪人が釣って来た湖魚を炙《あぶ》りにかかりました。
「君も働き給え、これで晩飯の御馳走をして上げる」
 湖魚を串にさして、炉火で米友に炙らせるのであります。
 これによって見ると、右の浪人は、この庵寺の一部に、一人|住居《ずまい》をしているものなることがよくわかる。妻子は別のところにあるのだか、どうだかわからないが、とにかく、今はこうして一人住居をしていて、よく釣に出かける、釣の留守は、隣家のお婆さんに頼んで置くのだ。貧乏こそしているが、かなり暢気な住居だなと思わずにはいられません。

         百八十七

 米友に湖魚を炙らせながら、浪人は一尾のかなり大きな魚を、ビクから掴み出して、米友の前に示して言いました、
「君、見給え、琵琶湖には、こういう魚がいるんだぜ」
「やあ!」
 米友は、眼をみはって、その魚を見つめました。といっても、米友はそう魚類に就いての知識を持っていない。鹹水産《かんすいさん》と淡水産の区別ぐらいはわかるだろうが、琵琶の湖にはどういう種類が特産であるか、そのことは知らないが、いま眼の前へ見せつけられた魚を見ると、どうも、一種奇怪の感じがしないではない。
 それは、鯉ではなく、鮒でも、ハヤでもないことは一見して明らかである。長さは一尺ばかりあるが、全身の鱗が、さながら蛇のようで、一見、人をゾッとさせるものはある。
「君は知るまい、これはカムルチという魚なんだ、怖るべき奴だ。何故にこいつが怖ろしいかといえば、第一、こいつは、他の良魚よりはすばらしい蕃殖力を持っていることだ。蕃殖力というのは、卵を産んで、その仲間を殖やす力だ。こいつがすばらしい蕃殖力を持っている上に、見る通り獰猛《どうもう》な奴で、他の魚類を手あたり――ではない口当り次第に食い荒すのだ。この通り鋭い歯で、単に食い荒すだけならいいが、こいつが殖えると、他の魚類という魚類を食いつくしてしまうのだ、つまり、他の魚類を根絶やしにしてしまうのだ。なんと、魚類にとってこれより怖るべき奴はないと同様、漁をして生活をしている人間共にとっては、またこのくらい害をなす奴もないものだ。また、この口中の歯並みを見給え、細かいけれど、この鋭いことを見給え、こいつでもって、あらゆる魚類を歯にかけるのだ。そうして、こいつは、生意気に、時々水面から口を出して空気を吸って、鯨の真似《まね》をする、かと思えば、泥の中に深く身を隠して、韜晦《とうかい》する横着も心得ている。今日もちょうど、拙者が釣をしているところの水面へ、変に妙な奴が浮き出した、すっぽんかなと思って手網《たも》を入れてすくい取って見ると、意外にも、こいつだ――どこから入って来たか、こいつに出られた日には、魚族よりは漁師の生活問題だ」
と言いながら、再応、米友の眼前に突きつけたものですから、
「ふむ、エライ奴だなア」
「ある意味から言えばエライにはエライ奴だよ、こいつが威力を振うと、日本一の大湖の魚族が根絶する!」
「うむ」
「今、京都に新撰組というのがあるが、それが、このカムルチの存在とよく似ている、いや、新撰組の存在は時勢の必要上、必ずしも悪魚の存在とは言えまいがな、あれなどはまだ正直な方だが、世間には、相当の合法的機構を備えながら、カムルチの所業をなして、世の良風美俗を害し、自由の名で横暴を行っている奴がある、そいつらの害悪たるやカムルチ以上である、たとえば……」
 米友には、この浪人のかこつけて言うことがよくわからない。新撰組の存在も、それ以上の何とかも、お角さん同様、米友の耳には入らないが、ただ、
「うむ、人間の中にも、こういう奴がいるよ、こういう奴が……」
と言って、ひとり呑込みをしました。
 その時、寺の玄関の方で、人のおとなうような声がしましたけれど、二人は話に油が乗って、それには気がつきませんでした。

         百八十八

 玄関におとなう声があったらしいのを、二人は炉辺の話の興にのって、それにはトンと気がつかず、「人間の中にもこういう奴がいるよ、こういう奴が……」と言った米友の思い入れを、青嵐は我が意を得たりとばかり受取って(この浪人の名を暫く仮りに青嵐と呼んで置く)、
「うむ、その通りだ、悪い奴がはびこると迷惑をするのは善い奴だ、いったい、悪い奴というものは征伐されるためにこの世に存在しているものなんだが、善い奴は得て事を好みたがらないから、それで隠れたがる、そうなると、悪い奴はいよいよいい気になって、増長|跋扈《ばっこ》する、人間ばかりじゃない、金銭に於てもそうだ、悪貨は良貨を駆逐すといって……」
 青嵐居士は、ここまで論じかけたが、これは相手にとって少し理窟っぽいと思い直したと見え、怪魚をビクにしまい込んで、
「明日になったら、早速ひとつ漁師共に話して、こいつの退治にとりかからせることだ。それはそれとして、君に夕飯を御馳走してあげるから、君も働き給え」
 こうして、青嵐は手を洗いに行き、米友もそれぞれ夕餉《ゆうげ》の仕度の手伝いにとりかかりましたが、生活ぶりが単純であるだけに、あんまり手数もかからず、釣り上げた新鮮なる湖魚を主菜にして、二人の会食がはじまりました。
 米友も辞退しないで、よばれていると、ゆっくりと食事をしながら、青嵐は米友に向って、
「君、君のいるあの胆吹の開墾地だがなあ、あそこの王様は女だという話じゃないか、女にしてはなかなか野心家だねえ」
「ああ、女だよ、お銀様といって、甲州第一番の金持の娘が大将で、もくろんでいる仕事なんだ」
「そうか、珍しい人だ、拙者も一度、その女主人様に会っておきたいものだと思っている」
「駄目だよ」
「どうして」
「なかなか気むずかし屋でなあ、みんなが腫物《はれもの》にさわるようにしている……だが、おいらなんざあ、怖くもなんともねえや、おいらが見たんじゃあ、只の女の人だよ」
 米友は、御飯を食いながら、こう答えて、昂然として何か多少の得意気な色を浮ばせました。
 つまり、胆吹王国の女王なるものは、無類の専制女王である。多くの人がビクビクと恐れているが、こちとらだけは怖くもなんとも思っちゃいねえ。女王様もまた、おいらに対しては相当隔てなく附合ってくれる。何が故に人があの女王を気に病むのかわからないでいるその自慢が、少しばかり現われたのです。青嵐も頷《うなず》いて、
「そうだろう、気むずかしいといって、わからずやでは、あれだけのもくろみは出来ない、会って話をすれば、ドコかエライところがわかるに相違ない」
「では、一ぺん会ってみな、おいらがそう言えば、あのお嬢様は会う」
「こっちへは来ないかね――そのお嬢様を、長浜見物に引っぱり出して来るわけにはいかないかね」
「それだ――もうこっちへ来ている、そいつをおいらはあとをつけて来たんだ――お銀様ぁ、いま長浜に来ているが、そのいどころがわからねえ」
 その時、玄関でまたおとなう声がしましたのを、今度は、はっきりと聞きとって、青嵐《せいらん》が、
「誰か来ているな」

         百八十九

 誰か庵寺の玄関に来ていることを気取《けど》ったけれど、青嵐は承知しながら聞流しにしている。米友がかえって落着かない気持で、
「じゃあ、おいらは、これで帰るよ、どうも御馳走さま」
と言って、立ちかけました。その時分に、もう食事は済んでいたのです。
 そうすると、青嵐が、それを押しとどめるようにして、
「まあ、いいじゃないか、ゆっくりして行き給えよ」
「ゆっくりしていると、日が暮れらあ」
「日が暮れたら、泊って行き給え」
「そうしちゃいられねえんだよ、おいらはこれから人を探さなくちゃあならねえ」
「誰を?」
「そのお銀様という人と、それから……もう一人の人間を、今晩は夜通しかかっても探して帰らなくちゃあならねえ」
「それは、よした方がいいぞ、君」
「どうして」
「どうしてたって、夜は危険だよ、夜歩きをするのはあぶない」
「あぶねえことがあるもんか」
と米友が呟《つぶや》いて、よけいなお節介を言う人だという眼を以て見る。それをおだやかに、
「いや、このごろは、この静かな湖畔の町にも、相当に殺気が立っているから、夜歩きはやめた方がいい。君も知ってるだろう、このごろ、江戸の老中といって、権勢のすばらしいお役所から、役人が出張って、土地の検査をして歩いているのだ」
「うむ」
「その検査ぶりが不公平だというんで、人民が動揺している」
「うむ」
「それから君、姉川の方面では、水争いがはじまっているのだ、百姓たちが、おのおの自分の田へ水が引きたいといって、血の雨を降らさんばかりに騒いでいる」
「それは知ってる」
「それからまた、この土地に絹の会所があって、そこの頭株に大金持がいて、そいつが横暴だといって、恨んで火をつけようとする奴が潜入している」
「え、火放《ひつ》けが来ているのか」
「そうだ、だから、今晩あたり、焼討ちがないとはいわれない」
「焼討ちがかい」
「うむ、火事があるかも知れない。そんなようなわけで、他国の者にはわかるまいが、この長浜の町は、外見の穏かなわりに、内部に殺気が籠《こも》っているというわけだから、うっかり夜なんぞ出歩くのはあぶないというのだ。よって、君は今晩素直にここへ泊るか、そうでなければ、長浜の町へ出ないで、ほかの道を通って胆吹へ帰るなら帰り給え」
 青嵐の言ってくれることは穏かで、そうして親切です。だが、どうも米友の頭には、それほどに響かないものがある。
「せっかくだが、そう聞いてみると、いよいよこうしちゃいられねえ、おいらは出かけるよ」
と言って、つと立ち上って、杖槍に手をかけた気勢、とどむべくもなしと見たものですから、
「じゃあ、大事にして行き給え、近いうち拙者は君たちの胆吹王国をたずねてみるよ」
「ああ、いつでも来なよ」
と言い捨てて、米友は早くもこの庫裡《くり》を飛び出してしまいました。

         百九十

 米友のあわた
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