、
「是非に及ばんです、いや、僕が悪いのです、こちらに隙があったからです、修行が足りないからなんだ」
「過《あやま》ちというものは誰にもあるものだ、そう気を落さんで、もう一度、念入りに探し給え、拙者もたしかに、ここで君が役人に見せたのを見届けているのだから」
再び白雲が言うと、
「いや、過ちではないです、僕のぬかりなのです、あの時、刀を抜く方に気を取られて内懐ろに隙が出来た、それが未熟の致すところなのです。あの時に取落したんじゃない、あの時に抜き取られたのです。しかも抜き取った奴の面までちゃんと僕は覚えているんですが、今となってはどうにも行かんです」
じっと、向う岸を睨《にら》んだ眼の中には、存外、自制もあれば、分別もあることを、田山白雲は認めました。果して落したものでない、抜き取られたものであるとすれば、抜き取った奴は何者か。何のためにしたことだ。居合を見事に抜かれたその仕返しに、こちらは懐中物を抜いてやったというのは、いたずらにしても細工があり過ぎているではないか。
十二
向う岸を睨みながら、柳田平治が、なおひとり言のように言いました、
「役人の傍に変な奴が一人いたのです、今となってわかるのです。なぜわかるかと言えば、あの、僕がこれを抜こうとした瞬間に、誰の心もみんな僕に向って集中するのはあたりまえなんで、みんなの心が集中するから、こちらも精神の統一が出来て、わざがやりよいのです。しかるにあの時、役人の傍に一人だけ変な奴がいて、何か僕の周囲《まわり》で、別な心持を持ってちょこまか[#「ちょこまか」に傍点]していたのが、いま思い当るのです、そいつが僕の手形を抜き取ったのです」
「人の手形を抜き取って何にするつもりだろう」
「何にするつもりか、それはわからんですが、単なる悪戯《いたずら》でもないでしょう。しかしです、もうそれと知った以上、詮議しても無駄ですから、僕は諦《あきら》めます」
「あきらめると言ったところで君、これから旅行免状なしに、どこへ行こうとするのだ」
「手形は無くても、道路があり、足がある以上は、行って行けないはずはないでしょう」
「そりゃあ理窟というものだ、君はまだ旅というものを知らない」
と、改めて田山白雲は、この青年に教訓してやる心持になりました。
この青年は旅を知らないが、自分は知り過ぎている。旅というものは、足だけでできるものではない、行路の難というものは、山にあらず、川にあらず、ということを、一席聴かせてやることが、この際、後進に対する重大な教育だと感じないわけにはゆかないのです。
そこで田山白雲が、この青年をとらえて、旅というものの教訓を始めようとする時に、この茶屋の前がまたにわかに物騒がしくなりました。
それは、往還の要衝たる渡頭のことですから、相当|賑《にぎ》やかなのは当然のことですが、賑やかと物騒とは調子が違います。只ならぬ人間の犇《ひし》めきが、今度はこちらの岸から起り始めたかのようです。白雲が、話題の鼻を折られていると、その前へ繰込んで来たのは、たしかに物騒な一行で、抜身の槍、突棒《つくぼう》、刺叉《さすまた》というようなものを押立てた同勢が、その中へ高手小手に縛《いまし》めた一人の者を取押えながら、引き立てて来たのであります。
二人は、押黙って、その光景を見ないわけにはゆきませんでした。
まず、真中に取りおさえられ、引き立てられている当人を見ると、それは、黒の羽二重《はぶたえ》の紋附を着て、髪は五分|月代《さかやき》程度に生えて、色の白い、中肉中背の二十歳《はたち》を幾つも出まいと思われる美男でした。それが着物は引裂け、朱鞘《しゅざや》の大小をだらしなく差したまま、顔面にも、身体にも、多少の負傷をしながら、高手小手にいましめられて、引き立てられて来るのです。
そうして、この茶屋の前を素通りしてグングンと引き立てられ、渡頭の方へと引かれて行くのは、舟で向う岸へ運ばれて行くものと見える。
思いがけない兇状持ち、それを無言で見送った途端、田山白雲の頭に閃《ひらめ》いたのは、さいぜんの乗合者の話――南部の家老の娘をそそのかして連れ出したという、美男の、色魔の、若侍の物語でありました。今ああして縛られて行ったのが、どうしてもその当人と思われてならぬ。あれが捕われたのだ、それがもはや疑う余地のないほどピタリと白雲の頭に来ました。
十三
上来の事件とほぼ時間を同じうして、距離に於ては向う岸の渡頭から南へ一里余を隔てた、追波川《おっぱがわ》が湾入して、大きな沼池をなしているところの荒れ果てた石小屋の中の、一方へ空俵を重ねて、その上へ毛布を敷きこんで、寝そべっている若い女の子がありました。
島田に結った髪がほつれてはいるけれども、花模様の着物の着こなしも、朱珍の帯のしめっぷりもきちんとはしている。だがまた、いやに艶めかしいところもあって、寝そべって、細くて白い、そのくせ痩《や》せてはいないで、少し蒼味を持った肉附のいい両腕を、双方から、ぼんのくぼ[#「ぼんのくぼ」に傍点]あたりへあてがって、そうして甘えるような、また自暴《やけ》のような声で、
「つまんない」
と言いました。
そうすると、つい、その戸じまり一重《ひとえ》次になった臨時お台所で、
「ツマンナイコト無イデス」
と言う、がんまり[#「がんまり」に傍点]した、その上、多分の寸伸びを持った応対。
見ると、そこに、不器用な手つきで、焜炉《こんろ》を煽《あお》って何物をか煎じつつあるその男は、これはずいぶん変っていました。まず眼の色、毛の色が変っているのみか、その体格が図抜けて大きいのが何より先に眼につきます。これは、月ノ浦に泊っている駒井甚三郎の無名丸から脱走して来たマドロスに相違ありません。してみると、無論、この一方に寝そべって、「つまんない」と投げ出した、妙にじだらくな若い女の子は、右のマドロスにそそのかされて、共に駒井甚三郎の無名丸を脱走して来た兵部の娘に相違ないでしょう。いや、マドロスに誘拐されたのか、マドロスをそそのかしたのか、そのことはよくわからないが、こうして一方が不貞腐《ふてくさ》れの体《てい》で寝そべっているのに、一方が庖厨《ほうちゅう》にいて神妙に勝手方をつとめているところを見れば――位取りの差はおのずから明らかであって、つまり、女が天下で、男が従なのです。女が比較的にヒリリとして、男が多分に甘い。
「ああ、つまんない、つまんない」
女の方がいよいよ自暴《やけ》になって、ほつれた髪の毛を動かすと、大男が、
「アア、ツマンナイコト、チットモナイデス」
「マドロスさん、お前の言ったことはみんな出鱈目《でたらめ》ね」
「デタラメデナイデス、本当デス」
「一つとして本当のことは無いじゃないか、この海を一つ乗りきりさえすれば、外には直《じ》きに大きな黒船が待っていて、わたしたちが着けば、その大きな黒船の上から梯子《はしご》を投げかけてくれる、それに捉まって上ってしまいさえすれば、もう占めたもので、あの黒船の中は、またとても外から見たよりも一層大きくて、美しくて、その中にはキャビンというものがあって、室内いっぱいの大きな鏡があって、下には花のような絨氈《じゅうたん》が敷いてあって、御馳走は、朝から晩まで給仕さんが、世界中の有りとあらゆるおいしいものを、注文さえすればいつでも持って来てくれる、それから夜は、中へ入るとふわりと身体が包まって、どこへ隠れたかわからないベットというやわらかなやわらかな蒲団《ふとん》の上に寝かせてくれる、そうしてその大船が、千里でも二千里でも畳の上を行くように辷《すべ》って行って、そうしてやがて、異国の陸《おか》に着いてからがまた大したもので、どこを見ても、御殿のようなお家ばっかり、孔雀《くじゃく》や錦鶏鳥《きんけいちょう》が、雀や鶏のようにいっぱい遊んでいるのなんの言っていながら、黒船なんぞ、どこにも見えやしないじゃないか――」
十四
娘がずけずけと不平を並べるのを、男はハイハイと頭を下げて、
「モ少シノ辛抱デス、オ嬢サン、ココデ仕度ヲシテ、ソレカラ海ヘ出ルデス、海ヘ出ルト黒船ガ待ッテイルデス」
「当てにならないね、マドロスさんの言うことは」
「当テニナルデス、今ココヲ逃ゲ出スト、人ニ見ラレルデス、人ニ見ラレルト、黒船ニ乗込ム前ニ捕マッテシマウデス、モ少シノ辛抱カンジンデス」
「もう、わたし、辛抱がしきれない、誰かに見つけ出してもらいたいわ」
「見ツケラレルト怖《こわ》イデス、捕マルデス、縛ラレルデス、ソウシテ船ヘ送リ返サレルト、ブタレルデス」
「怖かないわ、駒井の殿様は、そんなにきつく叱りはしませんよ」
「船ド[#「船ド」に傍点]サンタチガコワイデス、ワタシ袋叩キニサレマス、間違エバ簀巻《すまき》ニシテ海ノ中ヘ投ゲ込マレテシマウデス」
「そんなこと、ありゃしませんよ。もしかして船頭さんたちが、そんな乱暴をした時は、駒井の殿様が差止めて下さるわよ。それから、金椎《キンツイ》さんは神様を信じているから、わたしたちがこんな間違いをしたって許してくれる。それから茂ちゃん――あの子は何をするものですか。ああ、わたし、無名丸へ帰りたくなってしまった、誰か迎えに来てくれるといい」
「ソンナコト、イマサラ言エタ義理デハナイデス」
「ではマドロスさん、早く黒船へ乗せて頂戴な、黒船をここまで呼んで来て頂戴」
「ソレ無理デス、黒船大キイ、コンナ川ヘ入ラナイ」
「でも、この川もずいぶん大きいじゃないの」
「サ、オ餅、焼ケマシタ、オアガリナサイ」
と言って、一方の火にかけた鉄桿の上から、マドロスが真黒いものを一つ取って、娘の枕元へ差出すと、娘はちょっと横を向いて、ちらとその黒いものを見やり、
「何なのそりゃ、マドロスさん、いやに真黒なもの、何なの」
「焼餅デス、サッキ渡シ場ノ船頭サンカラ、貰ッテ来タデス、色ハ黒イケレド、ナカナカオイシイデス」
「わたしには気味が悪くて食べられない」
「食ベナイト、オナカスクデス、オナカスクト身体弱ッテ、コレカラ黒船マデ行ケナイデス」
「だって、食べたくない」
「オアガリナサイ、無理ニ食ベテ元気ヲオ出シナサイ」
「食べられません」
と言って、娘はこちらを向いてしまいました。この黒い焼餅こそは、先刻、このマドロスが生命《いのち》がけで渡頭の船頭小屋へ闖入《ちんにゅう》して、そこから掠奪して来たものです。そうして逃げ出すところを、船頭父子に追いつめられて、命からがら逃げのびて来た、その光景を向う河岸の小高いところに据えつけていた遠眼鏡を取って、いちいち田山白雲に認められてしまった、あれなのです。
そういう思いをして得て来た生命がけの糧《かて》を見ること、この娘さんは土芥《どかい》にひとしい。
「ああ、もう日が暮れるじゃないの、また今晩もこんなところで――ああ、わたし、いや、いや、誰か迎えに来て下さい、茂ちゃん――七兵衛おやじだといいけれど、あの人はいないし、田山先生だとなおいいけれど、あの先生も旅に出てしまった、誰か探しに来て下さい」
十五
自暴《やけ》をまる出しに、娘の調子が少しずつ声高《こわだか》になって行くのに狼狽したマドロスは、
「オ嬢サン、大キナ声ヲシテハイケナイデス」
「だって――今晩もまたこんなところで夜を明かさなけりゃならないとすれば、わたし、もうたまらない」
「モウ少シノ辛抱デス、日本ノ唄《うた》ニモ、オ前トナラバドコマデモ……トイウ唄アルデス」
「いやよ、マドロスさん、わたしはお前さんと苦労をするために、無名丸から逃げ出したのじゃなくってよ、お前さんが、あの大きな黒船に乗せて、御殿のようなキャビンの中で、王様のように扱われて、そうして異国の土地へ着けば、町々はみんな御殿のようで、金銀は有り余り、珍しい器械道具が揃《そろ》っていて、人間はみんな親切で、何から何まで結構ずくめの外国へ連れて行ってあげるなんて言うから、ついその気になってしまったの。それなのに、
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