にごらん下さりましょう」とかなんとか言って、鞘《さや》ぐるみ差出した方が神妙でよかりそうな場合ですけれども、柳田平治はそうはしないで、すっくと二三歩あるき出して、そこで長剣をゆり上げて身構えをしました。
その時、田山白雲が見ると、柳田の目つきが尋常でないと思いました。血走っているというわけでも、殺気が迸《ほとばし》るというわけでもないが、なんとなく一道の凄味《すごみ》が流れ出しました。つまりこの男は、真剣に刀を抜く気だな、ただ抜いて見せるだけでなく、居合の呼吸で抜いて見せるつもりだな、と考えざるを得ないのです。
田山白雲も、少々居合の心得が無いではない。「こいつ相当にやるな!」と思ってこの男の人相を見直すと、頭のところの月代《さかやき》の中に、大小いくつもの禿《はげ》が隠れつ見えつしている。その禿というのは、天性、毛髪が不足しているというわけではなく、相当の期間以前に生傷《なまきず》であったものが癒着《ゆちゃく》して、この部分だけ毛髪がなくなっているのだとしか見られないのです。これだけによって推想してみても、子供時代から、手にも足にも負えなかった持余しもので、その負傷の中には、柿の木から転び落ちて打った傷もあろうし、隣村の悪太郎からこば[#「こば」に傍点]石をぶっつけられた合戦の名残《なご》りと見られるものもあろうし、時とすると、真剣で浅く一殴りやられたものではないかと思われるほどの三日月形のも見えるのです。
そこで、改まって茶店の前で身構えをした時には、役人をはじめ、見ている者が、なんとなく穏かでない気分に襲われました。
やがて、腰のところへ手をあてがって、いわゆる居合腰になったかと見ると、スラリと水の出るように三尺五寸の長い刀を抜き出して、そうして、それを役人の目の前へ持って来て、ピカピカ二三べん閃《ひら》めかしたと思うと、スラリとまた鞘《さや》の中へ叩き込んで、多少の鍔音《つばおと》もさせませんでした。
「ごらん下されたか」
「うむ――」
「いかがでござりましたか」
「うむ――」
役人は、もう一ぺん改めて抜いて見せろとも言わず、こちらへよこせ、自分で抜いて見届けて遣《つか》わすとも言いませんでした。柳田の挙動に気を呑まれたというわけではなかろうが、最初の約束に、一度限り見せて進ぜる、いかにも一度限り、苦しくない――という誓言《せいごん》が物を言って、そこでそれ以上の註文は出せないらしい。
見物の中には、わき見をしていたために、この男が長い剣を抜いた抜きっぷりを見なかったのみならず、中身はもちろん、それを鞘に納めたのまで見損ったものもありました。まだ抜かないのだな、まだ抜いて見せないのだな、これからが勝負だとばかり思っているうちに、市《いち》が栄えてしまったという次第です。
それですべてが落着して、さしもやかましかった川破りも、刀調べの結果も、何のお構いも、お咎《とが》めもないということになると、柳田平治は肩で風を切って、さっさと前途に向って出立してしまいました。前途というのは、仙台方面へ向けて、つまり江戸へ行くという目的の方向なのであります。
九
呆気《あっけ》にとられた多数と共に、その後ろ姿を見送っている田山白雲は、その去り行く柳田平治の恰好《かっこう》を、おかしいものだと思わずにはおられません。
長剣短身は変らないが、その歩きっぷりというのが、さいぜん河原の中で見た挙動とは、また打って変った趣きがある。
それは小男としては大股に歩くのですが、足には太い鼻緒の高下駄で、そうして肩で風を切るというけれども、その風の切りっぷりが鮮か過ぎるので、少々身をうつむきかげんにして、右の肩が先に出る時には、それと共に右の足が著しく進出して、後ろの肩が思い切って後退する。左の肩が出る時は、左の足がそれに準じて大股になると共に、右の肩が思い切って後ろへ開かれる。その早足の調子と相待って、ぎくしゃくとした形、どうしてもおかしからざるを得ないのです。
けれども、その渡頭《わたしば》に呆然《ぼうぜん》として群がっている者が誰ひとり、笑って見送るものはありませんでした。どうもこれだけでは、笑って済まされない何かが残されてあるような気勢がしているからです。
さて役人の方は、これだけの査問が終ると、少々テレ気味で引揚げ、以前の早舟に飛び乗ると、さっさと舟を向う岸へ戻させてしまいました。その最後に当って、通常の旅客を満載した定期の渡し船が、向うの岸からこちらの岸へ到着しました。
それと入り代りに、こちらに待兼ねた士農工商が、いま到着した渡し船に、普通ならば我先に乗込むのですが、今日は二の足を踏む者が多いのです。
それというのは、向うから着いた旅客に向って、この際、向う岸の動静を聞いて置きたいという心持と、あちらから乗込んで来た一行も、何か事の仔細を、新たに向うへ渡ろうとする旅客に話しかけようとする気分が動いていたからで、そういうことに頓着ない老人子供などは、先へ乗込んだけれども、なかには、まだ一舟遅らせても新来の客と話し込んでみたいという者もありました。それがカチ合って、茶店の中での問答に興が乗ってきました。
今度は、物騒な川破り男もいないし、役人も行ってしまったから、心置きなく乗合衆の世間話に興が湧き上って来る。
田山白雲としても、この際、ちょっと立てなくなりました。只今さっさと風を切って立去ったところの、あの長剣短身の男の行方もどうやら気になる。そうかといって、この場へ齎《もたら》されて花が咲こうとしている向う河岸《がし》から新来の旅客の世間話が、どうしてもこの際、聞きのがせないものの一つとなっているようだ。
「えらいことじゃ、南部の御家老様のお嬢様をそそのかして、連れて逃げた奴がござる、その追手じゃな――それと前後してからに、南部の御城下で、お歴々の首を斬って立退いた奴があるとのことじゃ、それでお目つけがああしてお調べにおいでじゃわい」
と、向う岸から来た乗客のうちの年配なのが、土間の炉端の床几《しょうぎ》へ腰をかける匆々《そうそう》、こう口走ったのを、他の人数と同様、白雲も、更にその詳しい説明をここで聞いて置きたい気持になりました。
よし、事のついでだ、ここで一番、川魚でもあぶらせて、腹をこしらえてやろう。こっちもこれから前途相当に多事である。なんにしても腹をこしらえてのことだ。
白雲は、どっこいしょと腰を据え直し、持参の割籠《わりご》を開きにかかりました。
十
割籠を開いて、川魚をあぶらせ、腹をこしらえながら田山白雲は、向う岸から新来の乗合客のゴシップを聞いていると、最初に齎されたところのもの以上には詳しいことを知ることはできなかったけれども、要するに、南部の家老の非常に美しいので有名なお嬢様を、そそのかして連れ出した悪い若侍がある。悪い奴だけれども美しい男で、それに腕が利《き》いているのだということ。もう一つ別に盛岡の城下で、身分の軽からぬものを斬って立退いたものがある、その探索をも兼ねてあの役人が出張したということ。
右のうち斬捨てられた軽からぬ身分の者というのが、どのくらいの程度のものであるかよくわからないが、どうも前後の話を取合わせると、右の悪い若侍がそそのかして連れ出した娘の父であるという家老ではないか、家老であるところの父を斬って、その子であるところのお嬢様というのをそそのかして連れ出したのではないか、というように想像されてならないが、話の筋道は全く事件と性質を異にしたものになっている。
事件と性質とを異にしていても、いなくても、前者の事件には、今の長剣短身の男は絶対にかかわりがないと見なければならない。美しいお嬢様なり、姫君なりを連れての道行《みちゆき》ではなかったし、あの男自身も、美男で色悪《いろあく》な若侍とは言えまい。
だが――第二の事件、別に盛岡の城下で、身分の軽からぬものを斬って捨て、行方をくらましたというのへ当てはめてみると、あの男に相当ピタリと来るものがないとは言えないのだ。あの男ならば、意趣や遺恨は別として、単に出逢頭《であいがしら》の話の行違いだけでも、ずいぶん抜く手を見せ兼ねない。嫌疑としても容疑としても、その点は相当のものなのだ。刀の調べられっぷりでも、あれでは結局役人をばかにしたようなものだ。ばかにされたようなものだと知りつつ役人が黙過したのは、二本目を抜かせまいがためだ。二本目を抜かせると、何をやり出すか知れない!
その危険性は白雲もまた、充分に見て取っているのだ。ああいう際には、暫く不問に附してみることも、役人として卑怯なりとは言えない。だが、あの当座だけ大目に見られた御当人が、これから先、あの調子で、江戸まで往来が為《な》され得ると考えたら大間違い。恐山から来たと言ったが、本当の山出しで、まだ世間を知らない。立ちどころに行詰まって、立腹《たちばら》でも切らなければ納まらなくなるのが眼に見えるようだと、白雲はそれを思いやり、笑止千万に感じながら、でも、なかなか痛快な若者ではある、自分が帰りがけでもあれば、同行して面倒を見てやってもいいが、今はそうしてもおられない。
いや、飯も食い終った、乗合も散った、さあ出かけよう、と田山白雲が若干の茶代を置いて、この渡頭の茶店を立ち出でると、出逢頭に、のこのことこの場へやって来たものがありました。
見ると、それが今の思出し男、恐山から来た柳田平治に相違ありませんから、白雲も思わず、たじたじとしたことです。何をどうしたのか、先刻あれほど肩で風を切って出かけて行った男が、なんとなく浮かぬ面《かお》で、すごすごとまたここまで舞い戻って来たということが、白雲をして面食《めんくら》わせることほど、意外千万な引合せであったからです。
十一
「どうしたのだね、君」
あまりのことに、田山白雲が身近く寄って来たところのこの男に向って、かく呼びかけざるを得ませんでした。
「忘れ物をしました」
「忘れ物、何を忘れたのです」
「手形を忘れました、旅行券を」
「なるほど――」
その手形というのは、さいぜん、現にここで、この男が懐中からさぐり出して役人に提示して見せたのを、現に田山白雲も見届けておりました。
あの際、紛失したのか、或いはここを出て暫く行く間に取落しでもしたものか、いずれにしても、粗忽千万《そこつせんばん》の咎《とが》は免れない。隙のないようでも、若い者の手はどこか漏れるところがある。これから先、山河幾百里の関柵《かんさく》をあけて通る鍵だ。その唯一の旅行免状を取落して何になる。これではさすがの強情者も、浮かぬ面をして取って返さざるを得ない出来事だと、白雲も思いやりました。
しかし、事実はここで役人に提示したのだから、これよりあとへ飛んで戻るはずはない。柳田平治はまず店先よりはじめて、その辺を隈《くま》なく探し求めましたけれども、ついにそれらしい何物もありません。
柳田はついにその長剣を背中へ廻して、低い縁の根太《ねだ》の下まで探してみたけれども見出せないのです。白雲も同情して、そこらあたりを漁《あさ》って見てやったけれども、発見することができません。
さしもの豪傑も、ここに至っていたく銷沈気味でした。
茶店の老爺《おやじ》も気の毒がって、炉辺のござ[#「ござ」に傍点]までめくって見せたけれども、附木《つけぎ》っ葉《ぱ》と、ごみ[#「ごみ」に傍点]と、耳白《みみじろ》が三つばかりあるほかは何物もありませんでした。もしやと、少し下りて船頭小屋から渡し場のあたりまで調べてみたけれども、ついにそれらしい何物もありませんでした。
「もうやむを得ん」
と言って柳田平治は、腕組みをしたまま突立って、川原の彼方《かなた》を無念そうにながめました。
居合にかかろうとする瞬間である。問題はそこだ。そこでいったん懐中へ蔵《しま》い直したはずの手形が紛失したのだ。
「どうも見えないね、君」
白雲は慰め顔にこう言うと、腕を拱《こまね》いていた柳田平治が
前へ
次へ
全56ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング