、へ、へ、これをひとつ、あなた様に買っていただいて、しがねえ三下奴の国へ帰る路用に当ててえと、こう思うんでがんしてな……」
「そんなものは、わたしには用はありません、いいかげんにしないと人を呼びますよ」
「あ、あ、あ、そいつは、いけません」
と、頬かむりの奴は仰山らしく押える真似《まね》をして、
「野暮《やぼ》なことをして下さいますな、ここで声を立てられちゃ、事こわしでございますよ、わっしのためにも、あなた様のためにもな。まず、まあ、ゆっくり落着きあそばして、その品をお手にとるだけも取って、篤《とく》とごらん下し置かれたいものでげす、品物を御一覧下さった後に、買ってやるとか、やらないとか、おっしゃっていただけば、それでよろしいんでございますよ――お手に取ってひとつ見ていただきてえ」
「そんなものを見る必要はありません」
「必要とおいでなすったね、必要があるかないか、代物《しろもの》をひとつ見ていただいた上でなけりゃ、相場が立たないじゃございませんか。何ならひとつ手取早く、わっしの方から品調べをしてごらんに入れ申しましょうか。まずこの目貫《めぬき》でございますな、これが金獅子ぼたんでございますよ、もとより金無垢《きんむく》――しかも宗※[#「王+民」、第3水準1−87−89]《そうみん》というところは動かないところでげして、それからはばき[#「はばき」に傍点]が金、切羽《せっぱ》が金、しとどめが金――鍔《つば》が南蛮鉄に銀ぞうがん……小柄《こづか》は鳥金七子地《とりがねななこじ》へ金紋虎《きんもんとら》の彫り、それから塗りがこの通りの渋い三斎好み、中身は備前|盛光《もりみつ》というんだから大したものでございますよ。今時、御三家の殿様だって、これだけのものは、めったにゃあ差しません、こしらえだけを外して、そっくり捨売りにしたところで、あなた、相当のものでございますぜ」
と言って、頬かむりは、いちいち指さしをしながら、お銀様の方へ向って、脇差のこしらえの説明をしている。代物そのものは、能書通りのものかどうかわからないが、こいつの喋《しゃべ》るこしらえの知識だけは附焼刃に違いない。それから一段、声を落して言うことには、
「それはそれとして、お嬢様、ここんところをひとつ篤《とく》とごらん下さいまし、ここの栗形の下のところに、下り藤の定紋《じょうもん》が一つ打ってござんす、これが、そのやはり申すまでもなく金無垢で……もちろん、これをお差料になすっていたお方のお家の御紋に相違ございません、この通り金無垢で、下り藤の定紋がこの鞘に一つ打ってござんす」
七十七
頬かむりの忍び男が、お銀様の眼の前に投げ出した脇差を指しながら、こんなことを言い出したので、お銀様が思わずちょっと向き直りました。
「なに、下り藤の定紋が?」
「はいはい、その通りでございます、お見覚えはございませんか――どうか篤とお手にとって御一覧を願いてえもので……」
「ああ、それは――」
とお銀様が、はじめて少し本気になったようです。ついにこのいけ図々しい奴の猫撫声に、どうもある程度まで釣られてしまったらしい。そうして、手に取ることこそしないけれども、改めてじっとその脇差を見詰めましたが、
「これは、わたしの父の差料に違いありません、それをどうしてお前が……」
「それそれ、そうおいでなさるだろうと、実は最初《はな》から待っていたんでございます――そうおいでなさらなくちゃなりません。いかにも、これは甲州第一の物持、有野村の藤原の伊太夫様の道中のお差料なんでございますよ。そうと事がわかりましたら、あなた様に相当のお値段でお買上げが願いてえ、なあに別段、いくらいくらでなけりゃあならねえと申し上げるわけじゃございません、お目の届きましたところで手を拍《う》ちやしょう」
「どうして、お前がこれを持っているのです、ところもあろうに、こんなところまでこれを持って来た筋道がわからない」
「へ、へ、へ、筋道とおっしゃいましても、甲州から諏訪《すわ》へ出て、木曾街道を御定法《ごじょうほう》通りに参ったんでございます、あなた様の親御様でいらっしゃる伊太夫様のお枕元から、このしがねえ三下野郎が直々《じきじき》に頂戴して参ったんでございますよ、どうかひとつ、思召《おぼしめ》しでお買上げを願って、それを三下奴の路用に恵んでいただきてえんでございます」
「どうして手に入れたか、それを言ってごらん」
「どうして手に入れたかってお聞きになりますが、これだけの品を頂戴いたすまでには、相当の苦心てやつもあるでござんしてな」
「それを一通り話してごらん、筋が立ちさえすれば、買ってあげないものでもない」
「実はねえお嬢様、あなたのお父様とお見かけ申して、こんな品物をいただくつもりじゃなかったんでございますよ、もっと右から左へ融通の利《き》く、山吹色の代物ってやつをたんまりと頂戴に及びたかったんでございますがねえ、いや、さすがに、大身の旦那だけあって、お身の廻りの厳しいこと、御当人は鷹揚《おうよう》のようでいて、更に御油断というものがございません、それにあなた、附添のが野暮な風《なり》こそしていらっしゃるが、これがみんな相当、腕に覚えもあれば、眼のつけどころも心得ていらっしゃるんで、さすがにこのがんりき[#「がんりき」に傍点]――」
と言いさして、ちょっとばかりテレたが、テレ隠しに続けて、
「さすがに、この三下奴の手にゃ合いませんで、初手《しょて》の晩の泊りには、瓦っかけをしこたま掴《つか》ませられちゃいやして、いやはや、その名誉回復と心得て、二度目に出かけてみやしたが、用心いよいよ堅固、命からがらこの一腰だけを頂戴に及んでまいりやしたが、明晩あたり、改めてまたお礼に上らなけりゃなりません」
「いったい、わたしのお父様はどこにいらっしゃるのです」
と、お銀様の方から改めてたずねました。
七十八
「あなた様のお父様には、わっしゃ、美濃の関ヶ原でお初にお目にかかりました、一昨日《おととい》のあけ方のことでございます」
「関ヶ原で?」
「はい――実あ、その、なんでげして、これが甲州第一の物持でいらっしゃる有野村の伊太夫様だなんていうことは、夢にも存じやせんで、お目にかかっちまったんですが、ようやく昨日の晩になって、はじめてそれと伺いまして、驚きましてな」
「そうして、今はどこにいらっしゃる」
「関ヶ原から、昨晩は大津泊りでいらっしゃいました」
「大津――」
「はい、大津の宿で、はじめてそれと伺いまして、なるほど、がんりき[#「がんりき」に傍点]の目は高いと、こう味噌をあげちゃいましたようなわけなんでございましてな」
「何のために、お前さんは、わたしの父親に逢ったのですか」
「何のためにとおっしゃられると、ちと変なんでげしてな、行当りばったりに、袖摺《そです》り御縁というやつで、つい、関ヶ原の夕方お見かけ申しちまったんですが、今も申し上げる通り、これが甲州第一の物持の旦那様と知ってお見かけ申しちゃいましたわけじゃあござりませぬ、ただ行きずりに、こいつは只者でねえと睨《にら》んだこの眼力にあやまちがなく、お跡を慕ってみますてえと、果して大ものでござりましてな」
「では、お前は、わたしのお父様の旅をなさるあとをつけて、何か奪い取ろうとしたのですね」
「いや、その、ちょっとね、ちょっと行きがかりに、今いう、その、路用てやつを少々おねだり申したいと、こう思いましたばっかりなんでげすが、それが、その、みんごとしくじって、瓦っかけを抱かされちまったのが一代の失敗《しくじり》、これじゃ商売|冥利《みょうり》に尽きるといったようなわけで、再挙を試みたが、さいぜん申し上げる通りの用心堅固、大津まであとをつけて、やっとの思いでこの一腰《ひとこし》を拝領に及びました、そこで様子を窺《うかが》って見るてえと、この大物の身上がすっかりわかりました。わかりましたけれども、このうえ押せば、こっちの足もとが危ない、それ故《ゆえ》よんどころなく、この一腰だけを拝領に及んで引上げてまいりました。そこで、改めて今度はそれを御縁に、お嬢様のところへ伺いを立てに参上致した、と、こういったわけなんでございます」
「では、わたしの父親の方は用心堅固で、どうにもならないから、わたしの方は女の身だからどうにでもなると思って来たのかい」
「そういうわけじゃございませんが、そこは親子の間でいらっしゃいますから、何とかまたお話合いもできそうなものと、この一腰を証拠に、こうしておあとを慕って参りました、上平館《かみひらやかた》てのへお伺いしてみたんでげすが――お嬢様は長浜へお越しになっていらっしゃる、てなことをお聞き申したものですから、こうおあとを慕ってまいりました。どうかひとつ、この一腰をお買求めが願いたいんでげして……」
「いけません」
とお銀様が、きっぱりと答えると、頬かむりのままで男が少し居直りの形になって、
「じゃあ、これほど頼んでもお聞入れがねえんでございますか」
いよいよ紋切型の凄《すご》みにかかろうとすると、もう一間隔てた向うの座敷から、
「その脇差とやら、買ってやるからこっちへ持って来い」
氷のような声が聞えました。
七十九
この不意打ちの、冷たい一語の思いがけない抜討ちに、さすがの説教もどきも、骨までヒヤリとさせられたような狼狽《ろうばい》ぶりで、
「え、え、何とおっしゃいます」
思わず向うの座敷を見込んだのですが、それは秋草を描いた襖《ふすま》のほかに何物もないのです。しかし、言葉はまさにこの秋草を描いた襖のあなたから迸《ほとばし》り出たのに違いないのですから、一旦は狼狽したが、もとより相当な奴ですから、ここらで内兜《うちかぶと》を見せるようなことはない。こうなると、意地にも強気を見せるものごしになって、
「どなた様か存じませぬが、この一品を買ってやるとおっしゃいましたのは、そちら様で……」
「買ってやるから、こっちへ持って来いよ」
「いや、わかりました、有難い仕合せで。なにも、お買上げくださりさえすれば、どちら様で悪いの、こちら様でなければならないのと申す次第ではござりませぬ」
と言って、その一腰を取り上げると中腰になりました。
相当薄気味の悪い声ではあるけれども、主のわからない方面の買主に向って、この頬かむりの野郎があえて人見知りをしないらしい。
「まっぴら、ごめんくださいまし」
但し、あちらの秋草の襖の中の、新しく出でた買主のもとへ行くには、どうしてもこの女王の居間を失礼して突切らなければならないことになっている。いや、後戻りをすれば、廊下を廻って行けるには行けるに相違あるまいが、あちらからこう出られてみると、こっちの行張り上、また廊下をうろうろして出戻りなんぞは、第一、舞台面の恰好がつかないとでも思ったのか、それで敢《あ》えてこの女王の居間を失礼して、突切らせてもらって、新しい買主に面会を求めようと、小腰をかがめて進入してきたのは全く許せない挙動だが、お銀様はまだ、冷然としてそれを咎《とが》めようともしないで、眼の前を通る代物《しろもの》を空しく看過しておりました。
そこで、いよいよ図にのった、この白徒《しれもの》が、「まっぴら、ごめんくださいまし」と、色代《しきだい》するような手つきをして、膝行頓首《しっこうとんしゅ》、通り過ぎて行く。その形がまた、いよいよたまらない芝居気たっぷりでもある。
こいつが、お銀様の父伊太夫を関ヶ原で狙《ねら》った、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百というやくざ[#「やくざ」に傍点]野郎であることは申すまでもありません。
根が、このがんりき[#「がんりき」に傍点]というやくざ[#「やくざ」に傍点]野郎は、こういう色男気取りに出来ている。たちばな屋とか、よこばな屋とかの切られ与三《よさ》といったような芝居気が身についている男なのです。だから、これを街道筋の馬子上りや、場末の長脇差くずれと見られては、当人納まらないだろうと思われる
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