ない。普通の人間の住居《すまい》へ入ってさえ、人は被《かぶ》りものを取るのを礼儀とする。霊場として人のあがむる屋内で、仮りにも頭巾《ずきん》のままの通行は許し難いものがある。まして女のことです。女も躾《しつけ》の悪い、物を知らない女ではなく、見たところでは、服装と言い、人品と言い、立派に教養の備わっている婦人でなければならない身が、こうして覆面のままで堂内室内を見て歩くということは、どちらから言っても不作法千万と言わなければならぬ。
 しかし、さようのことに頓着のない覆面の婦人は、ずんずんと堂内室内を見て廻りました。態度の不作法なるに拘らず、この婦人の建築のながめ方には勘所《かんどころ》を心得たものがある。ただ、物珍しい建築として見るのではなく、果して秀吉以来の古建築の名残《なご》りがどこにひそんでいるのか、ということをまで吟味しながら歩いていると見れば見られる。
 女の身で、古建築を古建築として見るほどの鑑識を持ちながら、その建築の中で覆面を取らない不作法を敢《あ》えてしているのは、いよいよわからない態度だが、世間には知識があって道徳に欠けたところの人はあるものだ。
 かくて相当に、堂内室内をめぐって大広間の大床《おおどこ》の前へ来ると、この女客がじっと立ち尽してしまいました。むろん覆面はそのままで、覆面の中から、じっと瞳を凝《こ》らしてながめ入ったのが、正面三間の大床であります。その大床いっぱいに金銀極彩色で描かれたところの壁画であります。
 その壁画の前へ立つと、今まで逍遥気分でながめ廻っていた女客が、吸い寄せられたように凝立《ぎょうりつ》して、この大床の金碧燦爛《こんぺきさんらん》たる壁画を見つめてしまいました。
 熱心と言えば熱心と言えないことはないが、傲慢無礼とすれば、いよいよ傲慢無礼な態度で眺めている。
 憎むべしと言ってしまえばそれまでだが、この憎むべき女性が、甲斐《かい》の国の有野村の伊太夫の娘、暴女王として、いま胆吹王国の主となろうとしているお銀様その人だと見て取ると、この傲慢無礼のほどにもまた、相当の理解を要することがわかる。
 申すまでもなく、この覆面の無作法なる寺見物の客はお銀様でありました。

         六十六

 お銀様の見ている上段三間の大床の壁には、百年或いは二百年以上の時代を帯びた、金碧燦爛たる極彩色の、滝と、牡丹《ぼたん》と、唐獅子《からじし》が描かれているのであります。
 お銀様は、特に注意して覆面の中からこれを見つめて、立去ることを忘れるほど一心でありましたが、壁画の下の床《ゆか》の板の上を見ると、不快な思いを如何《いかん》ともすることができないらしくあります。左様に時代のついた金碧さんらんたる壁画の下の床板が、鼠の巣になっていることを認めると、お銀様がいやな面《かお》をしました。鼠の巣といっても、現にそこに鼠が巣をくって、子をはぐくんでいるというわけではありませんが、その床の上に古い帳簿だの、ぼろぎれだの、足のもげた小机だのというものが、ゴミ捨場のようにつくね散らされていることでありました。
 それを見ると、お銀様は眉をひそめずにはおられませんでした。たぶん、胸の中ではこんなに考えていたことでしょう、
「何という無作法なことをする人たちでしょう、悪意あってしているわけではない、この画に対する認識が乏しいばっかりにしていることだが、こうして置くうちに、ようやく粗末から廃滅になってはたまらない、早く何とかしないと、あったらこの名画の保護が手遅れになる」
 こう思いやりをしてみたようでしたが、さりとて、進んで寺僧に向って忠告――というまでにもならないで、ひとりひそかに残念がっているのは、その鼠の巣を嫌がるというよりも、この壁の画を惜しむことであります。
 お銀様は、それでもなお飽かず、滝と、牡丹と、唐獅子を、縦から横から見直しました。それから向って右の小襖《こぶすま》に唐美人の絵がある。出入口襖の桐に鳳凰《ほうおう》――左の出入口は菊に孔雀《くじゃく》の襖――いずれも金地極彩色なのと、その金具に五三崩しの桐紋がちりばめてあることまで丹念に見てしまったが、なお中央の滝と牡丹と唐獅子の大壁画を見直し、見返すことを忘れませんでした。その大壁画の雄渾《ゆうこん》にして堅牢なる、斧を打ち込んでも裂けない筆格を見ていると、またどうしてもその下に堆《うずたか》い鼠の巣に、いやな思いをせずにはいられないのです。
「この置きちらかしを、何とか始末をすればよいのに」
 その不快の思いを繰返しているところへ、どかどかと寺役が二三人、また無造作《むぞうさ》にやって来ました。それは、手に手に一抱えのものを持って、ある距離を取って壁画を眺めているお銀様の前を横切ると共に、あろうことか、今も不快の種となっていたその大床の床板の上へ持って来て、三人がおのおの胸いっぱいに抱えていた物を置き放してしまいました。その抱えて来たものは、提灯《ちょうちん》の古いのを重ねて括《くく》ったのや、さしに刺した銭を幾貫文となく、つまり、今までの鼠の巣の上へ、また鼠の巣の材料を加え、お銀様の神経を不快ならしめている上へ、また不快を積むのでありました。さりとてこの人たちは、みんな善良な、質朴な人たちで、画を冒涜《ぼうとく》せんがために、お銀様をイヤがらせんがために、そうしているのではない、画を認識しないのだ。画を認識する力が無いというよりも、床の間と物置との差別がつき兼ねているのだ。
 ところで、なおあとからあとから鼠の巣が持来たされ、ついに、牡丹と唐獅子の一角を埋めようとするに至ったから、お銀様が、つい、こらえられなくなりました。

         六十七

 お銀様が堪《こら》えられなくなったといったところで、あえて宇治山田の米友のように直接行動に出でられるはずもなし、また、ここは自分の王国ではないから、命令だけを以てしても行われようはずはなし、この人たちに事を分けて言い聞かしてみようというほどの気にもなれず、そこで、堪えられなくなったお銀様の行動というものは、直ちにその場を立去ることでありました。
 まだ見ようと思うところ、見残したところも多少あるでしょうが、これでお銀様は断念して、もと来た玄関の方から引返してしまいました。引返して後、この寺を出て宿へは帰らないで、湖岸の方へと向って行きました。その時はもう、連れて来た宿の少女もかえしてしまい、全く単身でありましたが、湖岸へ出て、しばし琵琶の湖水を眺めている姿を見かけましたけれども、それから後は、どこをどうしたか、お銀様の身が長浜の町の中へと呑まれてしまいました。
 しかし、その夜になると、いつ帰ったともなく、お銀様は宿へ帰って納っておりました。
 お銀様の宿というのは「浜屋」です。浜屋というのは、一見|旅籠屋《はたごや》とは見えない、古いだだっ広い、由緒の幾通りもありそうな構えで、大通寺の建築が豊太閤の桃山城中の殿舎であったとすれば、この宿屋は、たしかに秀吉長浜時代の加藤虎之助とか、福島市松とかいった人たちの邸をそのまま残したものであろうかと思われるくらいですから、間取りなども、宿屋というよりは陣屋、陣屋というよりは城内の大広間といったような感じのするところで、そのだだっ広い古びた一間にお銀様は、これも古風な丸行燈《まるあんどん》の下で、机に向ってしょんぼりと物を書いているところです。室内にあって、机に向って物を書きながらも、この人は覆面をとらないこと、昼の時と同じことでした。
 夜はもう静かなのです。長浜は静かな町ではあるけれど、時もかなり更けている。深夜というほどではないが、夕餉《ゆうげ》はとうに終って、夜具もなかなか派手やかなのが、いつでも寝《やす》めるように展《の》べられている。
 そこで、お銀様は筆を執って、巻紙をのべて、すらすらと書き出しました。手紙を書き出しているのです――その文言を調べてみると――お銀様は行成《こうぜい》を学んで手をよく書き、文章も格に入っているのだが、便宜上、その文言を現代的に読んで行ってみると、
[#ここから1字下げ]
「今日は、長浜の大通寺へ行ってまいりました。なるほど、お話の通り、想像以上に立派でもあり、由緒のある建築でもございました。
しかし、これだけの建築にしましては、守るものが少々認識不足に過ぎるように感じました。勿体《もったい》ぶらないでいいようなものですけれども、もう少し大事に心得ていてもらってもいいと思いました。
ことに問題のあの『山楽《さんらく》』でございました。三間の大床いっぱいに、滝と、牡丹と、唐獅子とを描きました、豪壮にして繊麗の趣ある筆格は、まさしく山楽に相違ないと、わたくしは一見して魂を飛ばせるほどでございましたが、二度三度見ても飽くことを知らぬ思いを致しましたが、肝腎《かんじん》の寺を預る人たちは、山楽を山楽として認識しておりません、これが残念です。残念だけならいいけれども……」
[#ここで字下げ終わり]
 お銀様は昼の見学の時の怨《うら》みを今、筆にうつしているところでありました。

         六十八

 お銀様は、さらさらと筆の歩みを続けて申します――
[#ここから1字下げ]
「あの豪壮な山楽の壁画の前が、鼠の巣となろうとしています。なにも寺の人は故意にしているわけではありませんけれど、世の常の人が偉人に親炙《しんしゃ》していると、つい狎《な》れてその偉大を感じないといったように、これだけの山楽を傍に置きながら、山楽とも思わないで、心なき寺の人が、その床を物置に使っているではありませんか。
このぶんで行きますと、早晩あの壁は壊れます。画も損傷してしまうでしょう。それが残念ですから、わたくしは寺を去りました。
そうして今もそのことを頻《しき》りに考えたのですが、ここに一つの工夫を考えつきました。あれは建築そのものが秀吉の桃山城の御殿をそっくり移したのです。それにあの通り、山楽の壁画でしょう。これを今のうちにどうかしなければ――そう考え考えて来ているうちに考えついたのはどうでしょう――あの御殿そっくりを、お寺から譲り受けることはできないものでしょうか。譲り受けて、丹念に取毀《とりこわ》し、そうして我々の胆吹山麓、上平館《かみひらやかた》の王国の中へそのまま移し換えることはできないものでしょうか。
そのことを、ひとつ伝《つて》をもってあなたからお寺の方へ交渉をしてみていただくことはできますまいか。
あのお寺の財政状態は存じません。檀家の人たちの意志も全くわかりませんけれど、あれをあのまま荒廃せしめるくらいなら、わたしたちで引受けてしまいたい。お寺によっては、ずいぶん話のもちかけ方によれば、存外宝物を手放さない限りもないと聞きました。大和の奈良の興福寺の五重塔なども、すんでのことに取りこぼち、二束三文の値段で売り払われるところであったと聞いたことがあります。わたくしは、あの大通寺の桃山御殿がそっくり欲しくなりました。果してできるかできないかわかりません。あなたには責任は負わせませんから、ひとつ交渉だけをしてみていただけますまいか――それと」
[#ここで字下げ終わり]
 果然――お銀様もまたロマンチストでありました。これはショーウインドーの前で宝石に憧《あこが》れるのよりは規模が少し大きいようです。こういう希望をいったい誰に向って書き述べているのだか、その相手は、想像するまでもなく、上平館の留守に残して置いた参謀長、不破の関守氏以外の何人でもありようはずはない。
 長浜へ着いて、浜縮緬《はまちりめん》の柄が気に入ったから欲しいと言わず、桃山城の御殿と、山楽の壁画を、そっくり買いたい――それがお銀様らしいと言わなければならぬ。
 で、それからなお続けて書いた文字によると、慾望はそれだけに止まらない。
[#ここから1字下げ]
「なお、わたしは知善院というのへ行ってみようと思います。そこにまた由緒の確かな豊臣秀吉の木像があり、それから、天下にただ一枚といわれる淀君自筆の手紙もあるそうでございます。
前へ 次へ
全56ページ中19ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング