ったと、今日まで伝えられているのだ。
 毎年の秋、幕府直轄の「天領」を支配する代官が、その任地に帰ろうとする時、家康はこれらを面前に呼びつけて、郷村の百姓共をば、
「死なぬように、生きぬようにと合点《がてん》いたし、収納申付くべし」
と申しつけたということである。
 その伝統を承って、これは家康の落胤《らくいん》だといわれた土井大炊頭《どいおおいのかみ》の如きは、ある年、その居城、下総の古河に帰った時、前年までは見る影もなかった農民の家が、今は目に立つようになって来たとあって、
「百姓、生き過ぎはしないか」
と、部下の役人に詰問的の問いをかけたということになっている。
 その当時の一村の名主の家には、必ず水牢、木馬の類が備えてあったのだ。百姓共が年貢を滞納する時は、水牢に入れ、木馬に乗せて、これを苦しめたものだ。
 それだけを聞いていると、いかにも農民に対して、血も涙もない遣《や》り方のように聞える。徳川家は、農民を見ること牛馬以下であって、農民にとって徳川家は仇敵《きゅうてき》ででもあるかのように聞えるが――事実、天下を政治するものが、好んで農民を苦しめたがる奴があるものか、苦しめる
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