、ロンドン
ツアン
[#ここで字下げ終わり]
を折返すと、女もいい気持になって、ここぞと思うあたりで、先を越して、
[#ここから2字下げ]
チーカ、ロンドン
ツアン
パツカ、ロンドン
ツアン
[#ここで字下げ終わり]
をやり出すものですから、期せずして合唱の形となって、今の先とは打って変った和気と、陽気とが、飄々《ひょうひょう》としてただよい出したというものです。
時に、日が暮れかかりました。
「オ嬢サン、提灯《ちょうちん》ヘローソク入レマス、オ待チナサイ、ソウシテ、今夜ワタシ、アナタノ淋シイノヲ慰メルタメニ、一晩中、器量一パイウタイマス、ワタシ、知ッテル世界ノ国々ノ唄トイウ唄、ミンナ歌イマス、イチバンシマイニ日本ノ、歌イマス……夜ガ明ケテモカマイマセン」
マドロスは、すっかり興奮しきっている。女も以前のようにむずかりません。
二十
そうしているうちに、北上川の沿岸に夜が来ました。
夜というものは、ありふれた風景でさえも、少なくとも一世紀は昔に返して見せるものなのですが、この辺の風物そのものが、日中でさえすでに近世紀の代物《しろもの》ではないのですから、夜になると、蒙蒼《もうそう》として太古の気が襲うのは当然です。
いいあんばいに、いつのまにか実に明るい月がかがやいていました。夜は風景を遡上《そじょう》して見せるけれども、月は時と人とをして、時間の上に超然たらしめる。
[#ここから2字下げ]
今の人は古時の月を見ざりしかど
今の月は曾《かつ》て古《いにし》への人を照らしたりき
古人今人、流るる水の如く
共に明月を見て皆かくの如けん
[#ここで字下げ終わり]
と微吟して、大きな柳の木蔭から、この北上川の沿岸の蒙蒼たる広原の夜気の中へ、のそりと歩き出した黒い人影がある。と、その後ろに引添うようにして、もう一つの黒い小さい人影が現われました。
一体にこの辺は、柳の大樹が多いのです。その謂《いわ》れを聞いてみると、源義経が奥地深く下る時に、笈《おい》に差して来た柳をとって植えたとか、植えなかったとかいうことで、今は大小高低、何千株の柳の老大樹が、断々離々として堤から原野へかけて生い連なっている。右の二つの人影は、その謂《いわ》れある柳の老大樹の林の中から身を現わして、堤を越え、原を横切り、小径《こみち》を越えて、柳の中に入り、また柳の中を出でつして来たものらしかったが、ここに至って柳の老大樹の林を全く後ろにして、そうして広い原の真只中へ露出しました。
右手には翁倉《おうくら》、黒森《くろもり》の山々が黒く十三浜の方に続いている。その広い原の真只中で、さきほど月に向って唐詩を微吟したところの大きい方の黒い影が後ろを顧みて、
「君、恐山《おそれざん》という山は、よっぽど高い山かね」
その声を聞くと、それは日中、渡頭《わたしば》を徘徊していたところの、下野《しもつけ》の足利の貧乏にして豪傑なる絵師田山白雲に相違ありません。そうすると、振返って呼びかけられた後ろの小さい方の黒法師が直ちに答えました、
「高い山じゃないですね、そう大して高いという山じゃないです」
直ちにこう答えたのは、これも日中、渡頭で居合抜きの芸術を鮮かにやってのけて見せたが――旅行券では、すっかり悄然返《しょげかえ》ったところの恐山出身の柳田平治に相違ないのです。この二つの黒法師は、黒法師っぷりとしてかえって調和がありました。田山白雲はすぐれて容貌魁偉《ようぼうかいい》であるのに、柳田平治は普通よりは小柄です。白雲の刀も普通よりは長いには長いが、身体には釣合っている。柳田平治のはただ一本、長過ぎることは昼間と変らないのです。こうして二人が相前後して北上川の沿岸の月の平野の夜を、我語り、彼答えつつそぞろ歩いて行くのですが、柳田平治は今の返答に附け加えて、
「南部の恐山といえば、なかなか有名ですから、人はすてきに高い山だと思いますが、山はさほど高くはないのです。山は高くないけれども、形相《ぎょうそう》の変った山でしてね、恐山には地獄が九十九個所あって、極楽がたった一個所だと言われます、なんにしても恐山は登る山でなくして寧《むし》ろ下る山なのです」
と言いました。
二十一
「山へ下る――」
と言って、田山白雲の黒い影が、ちょっと淀《よど》みました。
どんな山でも山という以上は、人間としては上るべきものである。山へ下るということは、あるまじきことである。柳田平治も当然それを補わなければならないのですが、特に註釈をしませんでした。それを田山白雲もおしてたずねようともせず、閑々として歩みつづけます。
かくて大小二つの黒法師は、いよいよ広原の中の月光の下に、鮮かに黒法師ぶりを発揮しながら無言の進行をつづけましたが、この二人
前へ
次へ
全138ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング