忍を弄《ろう》するのではない。こうして斬捨てにして置けば、その一味の者共が、見るに忍びないで、必ず死骸を収拾に来るにきまっている。それを待構えて更に一網打尽を試むる――いわば、囮《おとり》のためにわざとこうして放置しておくという政略もあったのです。
 天下の大勢を知らない女軽業の親方お角さんは、毒を以て毒を制する、時にとっての政略を知らない。ただ残忍と殺伐の点ばかりを見せつけられて、一途《いちず》に新撰組を憎いものと思い込みました。天下非常の時は、非常の手段を要するものだということに同情が持てないで、ただ、非常の手段のみを常道の眼からみて、そうしてその非常手段に反感を加えたがるのは近視眼者流の常だが、お角さんもまたその点に於て御多分に洩《も》れず、心に深く新撰組を憎み、同時に、ああして曝されて置かなければならない、いずれ名ある勇士たちの屍《かばね》の恥辱に、若干の同情と、義憤とを催している時分、
「ああ、あれ、あれ、新撰組の皆様がお見えになりました」
 この声で、集まっているすべての人の血が凍り、あたりの立木までが、鳴りをしずめて凝結してしまったようです。
 見れば戞々《かつかつ》と蹄《ひづめ》を鳴らして、馬を打たせて来る一隊の者があります。

         百七十七

 右の恐怖の一隊が現われたと見ると間もなく、山王の森蔭に隠れてしまいましたから、この席のものも生き返ったようにホッとして、暫くあって、また噂話《うわさばなし》に花が咲き出しました。
 その要領は、
「あの、馬に乗った隊長様の脇においでの若いのが、あれが沖田総司様と申しましてね、小太刀《こだち》をとっては小天狗といわれる名人なんです、あの若い方と、それからもう一人、永倉新八様とおっしゃるのと二人で、あの相手の六人を瞬く間に斬ってしまいました。新撰組の方も十何人おいでにはおいででしたが、専《もっぱ》らお働きになったのはあのお二人です、ことに、あの沖田総司様の小太刀の使い方は見事なものでござんしてな、こうして、刀を伏せる、つつと進んで行って、ポロリと相手の小手を斬って落してしまいます、小天狗とはよく言ったもので、あの方は近藤隊長の秘蔵弟子だそうで、わざにかけてはあの人が第一だそうでございます。なんしろ、新撰組の方は、一人一人がみんなそれぞれ日本で指折りの使い手なんですから、たまりません」
「近藤隊長は、今年三十五の男盛りでございます、近藤隊長は精悍《せいかん》そのもののような面貌《かお》をしておりますが、副将の土方歳三殿は色の白い、やさしい男ぶりでございます、沖田総司様も同様――ほんとうにあんな弱々しい二才風であって、よくまあ、ああも巧妙に剣が使えたものでございますなあ」
 沖田総司のことが、主としてここで話題の人気になってくる。まことや沖田は近藤門下の飛竜であって、小太刀を使わせての俊敏、たとうべくもない。近藤、土方の片腕と恃《たの》まれて、実戦の場数をあくまで経験している。その早業の人目を驚かすこと宜《むべ》なりと言いつべし。痛ましいことには、この天才的剣士は当時肺を病んでいた。呼吸器を日に日に蝕《むしば》まれながら、剣は超人的に伸びて行ったが、この翌年、その肺病のために、この男のみが畳の上で死ぬようなことになるとは、一層の悲惨である。
 立ちかけたお角さんが、そういう噂話を聞いているうちに、後から、のそりのそりと漸く至り着いたところの、お角さんいやがらせ[#「いやがらせ」に傍点]の一行――即ち三ぴん、よた者、折助、安直のならず者の一行であります。
 この時分になって、ようやくこの場へのさばり着いて、そうして、着くと早々、お角さんの方へいやな眼をつかって、キザな笑い方をしながら、またもその鼻っ先へ盆蓙《ぼんござ》を敷いてしまいました。
 またしてもここで、丁半、ちょぼ一、南京《ナンキン》ばくちをはじめて、江戸ッ児のお角をいやがらせようというたくらみに相違ないが、その時、またも店の中がざわめき渡って、
「あ、また、新撰組のお方がおいでになった」
「ナニ、新撰組!」
「真先においでになるのが、あれが、新撰組の副将、土方歳三様でございます」
「ナニ、土方」
「その次のが、今お話の沖田総司殿!」
「ナニ、沖田!」
 新撰組の名を聞いて、一口上げに狼狽周章を極めているのは、例のその三ぴん、よた者、折助、ならず者――お角さんいやがらせ[#「いやがらせ」に傍点]の盆蓙連であります。

         百七十八

 彼等は思いがけなく新撰組の名を聞いて狼狽し、慄《ふる》え上り、ついに面《かお》の色を失って早々に盆蓙をふるい、こそこそと逃げ隠れてしまいました。
 以前からここに控えていた連中は、またグッと引締ったけれども、よた者連のように逃げ隠れはしませんでした。
 お角さ
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