よ、何百回となるか数えきれないほどでござんしてね。それから、富士のお山へ登りまして天下泰平五穀豊年のお祈りをすることが百六十一度でございました。が、天保十二年の九月に七十七歳でお亡くなりになりました。わたくしたちも三志様の教えを受けたお弟子の一人でしてね――お前さんの御人相が、その三志様にそっくり似ておいでなさる」
 二宮金次郎様というような名前は、与八も、子供を教える時に、お松あたりから聞いて知っているが、鳩ヶ谷の三志様だけは、どういう人かよくわからないが、金次郎様に負けない徳行の人であると思っている。
 お婆さんの物語る、そういう語りぶりを、与八が実によく神妙に受取るものですから、お婆さんもいい心持になって、語り続けました、
「中興の食行様《じきぎょうさま》は、江戸の巣鴨に住んで、油屋を営んでおいでになりました。富士のお山の麓には、食行様が立行《りつぎょう》というのをなさった石がございます、その石の上へ立ったままで御修行をなさいましたので、石へ足の指のあとがちゃんと凹《くぼ》んでついているのでございますよ。食行様は御一生の間に、富士のお山へ八十八回御登山をなさいました、そうしていつも、自分の家業は少しも怠らず、常に人に教えて『半日は家業に精出せ、半日は神様におつとめをするように』と申されました、そこで信徒たちにも『信心のあまりにも、家業を怠けるようなことがあってはならぬ』と教えて、御自分も教主の御身でありながら、油売りをおやめになりません、その油を売る時も、桝《ます》の底から周囲《まわり》まで竹箆《たけべら》で油をこすり落して、一滴たりとも買い手の利益になるように商売をなさいますので、人々がみな尊敬いたしました。こうして食行様は、享保十八年に富士の烏帽子岩《えぼしいわ》にお籠《こも》りになって、そこでこの世を終りなさいました」

         八十九

 お婆さんはなお諄々《じゅんじゅん》として語りつぎ、語り出でました、
「教祖の角行様《かくぎょうさま》は肥前の国、長崎のお方でございます、御本名は藤原|邦武《くにたけ》と申されました。応仁の乱この方、天下が麻の如く乱れて、人民が塗炭の苦に落ちかけているのを、見ても聞いてもおられず、どうぞして、この世を救い、人を助けたいと思召《おぼしめ》して、これはもう人の力では及びもない、神のお力をお借りするよりほかはないと思召して、十八の時、お家をお出になりまして、あまねく名山、大川、神社仏閣の霊場めぐりをなさいまして、最後に富士のお山へおいでになりました。ここぞ御自分の畢生《ひっせい》の御修行場と思召して、お頂上、中道《ちゅうどう》、人穴《ひとあな》、八湖、到るところであらゆる難行苦行をなさいました、それからいったんお国許へお帰りになりまして、また再び富士のお山の人穴に籠《こも》って大行をなさいました。そうして、ひたすらに天下泰平、万民和楽をお山の神様にお祈りあそばして、幾年月の間、外へはお出になりませんでしたが、その間、織田信長公の天下が太閤秀吉様になり、それから権現様《ごんげんさま》の御政治になって、天下がはじめて泰平になりました。それをはじめて知って、角行様は大願成就とお喜びになりました。それが御縁で角行様は、この富士のお山こそ御国のしるし、御国はまた万国のしるし、取りも直さず富士のお山は、天御中主神《あめのみなかぬしのかみ》、高産霊神《たかみむすびのかみ》、神産霊神《かみむすびのかみ》の御三体の神様の分魂《わけみたま》のみましどころであるということを、御霊感によって確然とお悟りになり、そこで、この富士のお山こそ天地の魂の集まり所であると、こうお開きになり、天地の始め、国土の柱、天下国治、大行の本也《もとなり》、とお遺言なさって、正保の三年に、富士の人穴で御帰幽なさいました」
 そこで富士の霊山こそは、日本の国の秀霊であって、それと同じように、日本の国は万国の秀霊であるということの信仰。富士山こそは天下泰平国土安穏の霊山であるから、この霊山を信じ、祈ることによって、国家安穏の大願が成就する。この身体を清めて、肉体の難行苦行に堪えることが、一切のけがれから脱却する最大の手段であること。そうしてこの心霊を練ることによって、神人合一の妙所に到り得るものであるというようなこと――を、事細かに説いては与八に聞かせました。
 与八は、いちいちそれを頷《うなず》いて聞いている。それからお婆さんは、自分の今度の旅行も、この故に富士山へ登山参詣をして来たその戻り道であるということを聞かされて、与八もこれには実際的に多少の驚異を感じたようです。というのは、七十以上のお婆さんの身で、真夏でもあれば知らぬこと、もう晩秋といってもよい時分に、単身で富士登山をしての戻り道だということを聞かされてみると、
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