んが、与八をしゃがませてしまいました。
お婆さんの細腕で、与八をしゃがませることができようはずはないのですが、お婆さんの言うことが高圧ぶりなのに圧倒されて、与八はつい、しゃがませられてしまったのです。与八をしゃがませて置いてお婆さんが手拭をとって、ごしごしと背中を流しはじめたのはよいが、まるで松の樹に油蝉が取りついたようで問題にならないが、それでもお婆さん、一生懸命でこすり立てながら、
「だから、わたしは、はじめから、人相が違っていると思ったのさ、今時、お前さんのようないい人相を見たことはないと言ったのさ、まるで、鳩《はと》ヶ谷《や》の三志様《さんしさま》そっくりの人相だから、わたしゃ夢かと思ったのさ」
と言いました。
与八の人相に見惚《みと》れたという心状は偽りがないにしても、いい人相で、観音様に似ているとか、地蔵様に近いとかいうのならいいが、このお婆さんは、変な比較を持ち出して来ました。
「鳩ヶ谷の三志様が、ちょうどお前さんと同じような人相でしてね」
「はア」
と、お婆さんの感心に引きかえて、与八は気のない返事です。気がないのではない、お婆さんのは感心が先になりきって、独《ひと》り合点《がてん》で、聞く人にはよく呑込めないのです。やがて、お婆さんは問われもしないのに、鳩ヶ谷の三志様というものの人格の説明をはじめました。
右のお婆さんの語るところによると、鳩ヶ谷の三志様という人は、武州足立郡鳩ヶ谷の生れの人であって、不二講という教に入って、富士山に上り、さまざまの難行苦行をしたそうです。
ところが、そのうち、お釈迦様《しゃかさま》と同じように、こういう難行苦行だけが本当の人を救う道ではござるまい、誰かもう少し本当の道を教えてくれる人はないか――それから師を求め、道をとぶろうて修行して、まさにその道を大成したということです。
そうして、心身ともに鍛え上げて、道徳も、信仰も完備し、四十余年の間五畿七道いたらざるところなく、四方を遊説《ゆうぜい》して、実践躬行《じっせんきゅうこう》を以て人を教え導いて、その徳に化せられるもの十余万人を数えるようになったということです。
「あの、お前さんも御承知だろうが、二宮金次郎様がね、野州桜町の復興の時でござんしたね、いろいろに苦心をして、衰えた土地を回復し、人気を厚くしようと、寝る目も寝ずになされたが、どうも昔からだれ[#「だれ」に傍点]癖のついた土地柄は、金次郎様の力でも一朝一夕に直すというわけにはゆきませんでなあ、いや、血を吐くように御苦労をなされたものなのだ。土地の人の惰弱だけならまあいいが、よけいな奴が出しゃばって来て、つまらない改革をするといって、わざと金次郎様の命令に反《そむ》いたり、その事業の邪魔をしたりな、それはたいへんなものでござったので、金次郎様もどのくらい苦労なされたか知れたものではない。そのうちにある時のこと――金次郎様が村を通りかかりますと、一人のお婆さんがあってね、それが、外に出ていた草鞋《わらじ》を取り上げて、ていねいに、ちょうどお前さんがしたように、押しいただいて内へしまったのを、金次郎様がごらんなさいましてね」
八十八
「お婆さんが草鞋を押しいただいて内へしまいこんだのを、金次郎様がごらんになってな、はて珍しい、奇特なことだと、そのお婆さんに問いただしてみると、そのお婆さんは、日頃からちゃんと鳩ヶ谷の三志様の教えをお聞き申している――ということがわかって、金次郎様がなるほどと感心をなさって、そういうわけならばわしもひとつ三志様にお頼みをしようと、それから金次郎様が三志様をお招きになって、村人に説教をしてお聞かせ下さる、村人が追々に金次郎様の御誠心と、三志様の御説教がわかってきて、桜町の復興のことも立派に成就《じょうじゅ》いたしました。それは、一つには金次郎様のお力、一つには三志様のお力でございました」
与八の頭は、特にそういう話をよく受入れるように出来ている。曾《かつ》て武州|登戸《のぼりと》の丸山教の教祖様に似ていると感心させられたこともあり、木喰五行上人《もくじきごぎょうしょうにん》と比べられたこともありましたが、ここでは、鳩ヶ谷の三志様という人と比べられているのであります。
しかしお婆さんは、最初のうちは、与八の人相の引合いとして三志様なるものを持ち出したのですが、今は、与八の人相はそっちのけになって、鳩ヶ谷の三志様の鑽仰《さんぎょう》で持切りになってしまいました。
「三志様は京都へおいでると、必ず御所の御門のところへ行って跪《ひざまず》いて、天子様の万歳をお祝い申し上げる、それから下野《しもつけ》の日光山にまいりますと、権現様の前へ跪いて天下の泰平をお祝い申し上げるのです。それがもう、一度や二度のことじゃございません
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