から斬って落すと、また一時姿が見えなくなりました。同時にくぐりの小門にはさまれて頭蓋骨を微塵《みじん》に砕かれた一頭がある。
 かくて黒衣覆面の痩《や》せ姿は、完全にいずれへか夜の引込みをつけてしまいました。

         六十四

 やがて、暁《あけ》の鐘の鐘つき男によって発見されたこの一場の修羅場《しゅらば》のあとが、一山《いちざん》の騒ぎとなったことは申すまでもありません。
 打見たところでは、人間と畜類の修羅場でありました。松の木の裏に斃《たお》れた女人の素姓《じょう》は、まもなくわかりました。これは町内の木屋という木綿問屋の旦那のお妾《めかけ》でありました。その身につけた衣裳と、懐中した道具によって、呪詛《じゅそ》の目的で来たことは疑う余地がありません。呪詛の目的主としては、或いはその問屋の本妻であると言い、或いはもう一人のお妾のために寵《ちょう》を奪われたその恨みだとも言い、またはこのお妾に別に情夫があって、それとまた他の女との鞘当《さやあ》ての恨みだとも言い、揣摩臆測《しまおくそく》はしきりでしたけれども、まだその場で真相をつかむことはできないが、本人の身許だけは明瞭確実になりました。
 それから、もう一つは、生きて泣き叫んでいる幼な児です。この子は女の子であって、餓えも凍えもしないし、身体のどこにも負傷はしていませんでしたが、その身許だけはどうしても急にはわかりませんでした。
 とりあえず近所のおかみさんに頼んで乳を含ませることによって、応急の処置はつきました。
 最後に、どうしても解決のつかないのは、魚貫《ぎょかん》したように、鼓楼の方へとつながって裏門まで続いている犬の死骸です。どこの犬で、何のために斬られたかということは、誰にも見当がつかない。ことにその斬られっぷりというのが無残なもので、腹を下から裂かれたり、口だけを輪切りにされたり、前脚を二つ斬り落されて、まだビクビク息を引いていたり、真向に断ち割られて二言ともなくのめっていたり、戸にハサまれて頭を砕かれていたり、その惨澹たる、さながら、わざとした曲斬りか、そうでなければ、こういうふうに斬りこまざいて、他から持参して、わざわざここへ、こんなふうに蒔《ま》き散らして行った奴があるのではないか、とさえ想わせられました。
 何にせよ法域を、こういう人畜の血で汚したことは不祥千万なことでありました。
 しかし、この不祥千万な光景も、検視が進行し、掃除が励行されると共に、ほとんど何の痕跡もとどめず、早朝に来たものでさえも、そんな不祥がこの場で行われたということを気づくものはありません、水を流したように綺麗になってしまいました。あとから目の色を変えて見舞に来た遠方の檀家《だんか》の者に向って寺男が、
「そんなことがござんすまいことか、おおかたお花さん狐が、ちょっとお道楽にそんな芝居をして見せたまでのことでござんしょ、ごらんなさい、松の木の下の池のほとりも、塵一つ汚れちゃおりませんがな。だが、このほとり近いところに、そういう噂《うわさ》があってみると、御油断なすっちゃいけません」
 全く、悪魔の領域は夜だけのもので、昼になって見ると、惨劇も、腥血《せいけつ》も、夢より淡いものになりました。お寺の境内には小春日和がうらうらとしている。その日中に、少女を一人連れた参詣の女客がありました。ちょっと見ては、またかと思われるほど――この女の参詣客は覆面をしておりましたのが、昨晩のあの第二の覆面とよく似ております。
 よく似てはいるが、内容はたしかに似ても似つかぬ男と女とです――今日の日中の覆面の女客は、杖も持っていないし、刀も帯びてはいないが、覆面の覆面たることは同じであります。

         六十五

 覆面の覆面たることは同じですが、少女に言わせたこの覆面の女の参詣客は、玄関に立って、寺役に向っての特別の申入れの次第はこうでした、
「恐れ入りますが、御殿を拝見させていただきたい」
 おりから、近き日数のうちに行わるべき秋季の法要と、宝物展看の準備のために忙がしかった寺役は、極めて寛大に、
「どうぞ、ゆるゆる御自由にごらんくださいませ」
 拝観料何程と徴収もしない代り、特に誰かが附添って、説明と監視とに当るという設備もなく、その身そのままで、自由なる室内の拝観を許されたのでした。
 そこで、覆面の客は少女を後に従えて、ずっと玄関を通ってしまって、ゆるゆると内部の見学にとりかかったのだが、それにしてもこの女客は、堂内へ入ってすらもその覆面を取ることをしませんでした。覆面をしたままで、堂内を隈《くま》なく見学にとりかかりましたのです。
 寺の人が誰も附添わないし、またどこにも看視の人が附いていないとは言いながら、この態度は甚《はなは》だ不作法のものと言わなければなら
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