すが、その杖を振り上げるとはっし! とばかり、籠にのしかかった一頭の犬を打ちました。
打たれた犬は、ほとんど宙天といってよいほどに飛び上ったのは、竹の杖とはいえ、打つ力に手練が籠《こも》って、打たれた方のこたえ方が烈しかったと見える。
さてここで一頭が打たれて飛び上ると、他のすべての犬が一散に立退いて警戒をはじめたのは、敵がある、我等の生存権の実行を駆逐しようという奴が、思いがけぬ方面から現われた! と気がついたからです。
竹の杖は、つづけざまにはっし! はっし! と、第二第三の犬を打ち据《す》えました。打ち据えられるたびに犬はすさまじい叫びを立てて、いったん転倒したり、跳ね上ったりしたが、やがて立て直して反噬《はんぜい》の牙を揃える。
普通の場合ならば、大抵の犬ならばこれで尻尾を捲いて退くでしょう。猛獣でない限りの畜類の常識では、人間の畏《おそ》るべきをわきまえている。人間からされると杖の影を見ただけでたいてい退却する。
ところが、この場合は、全く畜類の常識が通用しませんでした。餓えは、家畜を駆《か》って猛獣以上のものにする。己《おの》れの生存のために、餓えを救わんとして試みかけているその瞬間を妨げられた群犬は、ここでは残らず狂犬であり、猛獣化しておりました。
相手を見つけたのです。今までの、食いよさそうな幼な児一匹では食い足りない、と思っているところへ、また一塊の肉が投げられた、いや、好んで餌食に投じて来た奴がある。「御参なれ」餓えたる犬共は、幼な児を打捨てて、新たなる相手に向って一様に牙を鳴らしかけた時は、食慾のほかに憤怒が加わっておりました。
六十三
もう竹の杖では間に合わない。
打つことは打つが、打ち殺すことはできない。その竹の杖で、犬の足を打ち折ったり、耳を叩き落したのもあり、体を突き崩したのもあるが、相手の戦闘力を全滅せしむるわけにはゆかなかったので、黒衣の覆面は、少し焦《じ》れ立ったようです。
畜生の分際で――よし、その儀ならばと、竹の杖を投げ捨てると、キラリと脇差を抜きました。
これが人間ならば、おきまりの「やあ、抜きゃがったな、しゃらくせえ、水道のお兄さんの身体へ、なまくらが立つものなら立ててみろ」とかなんとか、啖呵《たんか》を切りながらも用心を改めるところなのですが、犬ですから、その見境いがありません。
一頭が勢い込んで飛びかかったのを、ズバリ斬りました。
今度は竹の杖とちがって、致命的でした。斬ったというよりも、脇差を抜いて手軽く構えたところへ、犬が斬られに飛びかかったようなもので、顎《あご》の下から腹へかけて、鰻《うなぎ》を裂くように斬られた犬が、異様な叫びを立てて地に落ちると、もう動きません。
そうすると件《くだん》の黒い姿は、片手で軽く刀を構えたまま後退するのを、第二の犬が飛びかかった途端に、口が落ちました。ちょうど、狐の面のガクガクするあの部分だけが切って落されて地にあるのですから、鳴きかけた声の半分は地上で鳴き、半分は咽喉《のど》からはみ出したままで倒れて、仰向けに烈しく四足を動かしている。
そうして置いて、黒い影はなおじりじりと後退する。それをすかさず追いかけた第三の犬は、真向《まっこう》を二つに割られて、夥《おびただ》しい血をみんな地に呑ませて、へたばってしまいました。黒い影は、こうしてまた鼓楼の方へと後退する。
第四の犬が飛びかかるのを、脇差をちょっと横にすると両足を切って落してしまったから、二本足の犬が地上に不思議な恰好《かっこう》をして、鳴き立てずに眼をまわしている。
そうして置いて、黒い覆面が後退する。あとに残る犬共が、先後を乱して飛びかかる時分には、鼓楼の後ろの闇へ黒い姿は隠れてしまいました。
餓えたる犬共は、血迷い尽している。今までの単純な餓えと憤りのほかに、兇暴な復讐性と、先天的の猛獣性とが入り乱れて、相手の一人をあくまで追究して、その骨をまでしゃぶらなければ甘心《かんしん》ができないという執念に燃え出している。
ところが、鼓楼の背後でちょっと相手の姿を見失ってしまうと、犬共は塔に飛びつき、石に向って吠え、木の根にかぶりつき、※[#「けものへん+言」、第4水準2−80−36]々囂々《ぎんぎんごうごう》として入り乱れながらも、影の見えない相手を追い求めて狂い廻っている。
この際、あの食べ頃な赤ん坊の肉体が忘れられていることだけが勿怪《もっけ》の幸い。
かくて、最後にあの裏門、すなわち台所門のところでありました。そこで、再び黒い覆面の姿を追い求め得たりと見ると、餓えたる犬が、また一斉に牙を鳴らしてしまいました。
黒い姿は、たしかに裏門まで追いつめられた形でした。
そこで一刀にズバリと一頭の犬をまたも真向《まっこう》
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