、その藩籍俗姓のくわしいことは、まだわからない。不破の関の巻を読んだ人は、相当に色どりのあるロマンスを持ち、心の悩みに相当の解脱《げだつ》を持ち来たしているということはわかります。
 かの如くして、美濃の国の関ヶ原の不破の関屋の板廂《いたびさし》の下に暫く身をとどめて、心を癒《いや》しておりましたが、その間に、読書もすれば、人事をも考えていました。
 ことに、美濃にゆかりある人物に就いては、親しくその人を育《はぐく》んだ山川草木の間で、相当の研究を積んでいたには相違ないが、その中でも竹中半兵衛尉重治《たけなかはんべえのじょうしげはる》の研究に就いては、なかなかの造詣《ぞうけい》を持っているらしい。
 羽柴秀吉をして、明智光秀たらしめなかったものは竹中重治である。一代の英雄のうしろには、必ず、また一代の明哲がいる。竹中半兵衛の如き明臣があらざりせば、秀吉の運命はまさしく明智光秀と、そう相距《あいへだた》ること遠からざる運命に落ちたに相違ない。
 竹中半兵衛は器量人である。名優である。しかも最も渋いところの脇師である。蘊蓄《うんちく》の底の深いこと、玄人《くろうと》はかえって、秀吉よりも、信長よりも、こういう人を好くことがある。
 しかし、不破の関守氏は、土地の関係上、竹中半兵衛に興味をこそ持て、これを研究こそしておれ、自分が半兵衛を以て自ら任ずるほどには己惚《うぬぼ》れていないこともたしかです。だが、興味を持ち得るところは即ち素質の存し得るところですから、こういうのが功を積み、時を得ると、天下の風雲をそそのかすような隠し芸をやり得ないとは限らない。
 天下の風雲を唆《そそのか》すほどのことをやり得られないとしても、天一坊を得れば山内《やまのうち》、赤川となり、大本教を得れば出口信長公となり、一燈園を作れば西田天香となり、ひとのみち教団へ潜入すれば渋谷の高台へ東京第一の木造建築を押立てるくらいのことは、仕兼ねないと見なければならぬ。
 世には絶倫の器量を持ちながら、とうてい脇師以上には出られない人があり、欠点だらけでも、立役《たてやく》の巻軸に生れついたような人もある。人それぞれ、自分の器量を自覚し得ればそれに越したことはない。不破の関守氏は、この点に於て甚《はなは》だ聡明であったようです。自ら番頭以上を以て居らず、お銀様を押立て、これを主として事を為《な》すという働き以外には、一歩も出ませんでした。
 お銀様を助けて、その事を為さしむるというのは、お銀様を担《かつ》いでその実権を握ろうというのとは違います。徹頭徹尾、脇師をもって自分の天賦《てんぷ》と心得たかのように、主役としてのお銀様を立てることは、本心から然《しか》るのでありました。
 さればこそ、心のアクが抜けている。アクが抜けているから、人をそらさないのです。来るほどのものを、皆そらさず取入れて、それぞれの仕事に働かせることに於て、まだ日が浅いけれども、十二分の成績をあげている。彼は第二段として、集まる人の信仰、或いは集中の対象となるべき大本殿の建築を計画している。
 山師として見れば、また立派に一個の山師たる素質を備えているかも知れないが、本人自身は山気《やまけ》はない。
 偶然とはいえ、こういう役者は求めて容易に得られるものでなく、与えられたお銀様の事業のためには、無上の人物です。

         四十一

 そこで、不破の関守氏の人徳が、お雪ちゃんのように敢《あ》えて誘惑を試みないでも、相当に人を惹《ひ》きつける力を持っている。
 仕立飛脚で甲州からやって来た人でさえも、話し込んでいるうちに、自分も甲州へ帰らないで、いっそ、この王国の中へ住み込んでしまおうかという気になる。
 どこから伝え聞いて来たか、包一つを抱えた田舎娘《いなかむすめ》は、立ちどころに拾われて、もう水仕事をしている。
 それはそうとして、今も飛脚氏との会話のうちにあった、この胆吹王国の女王お銀様の父なる人、甲州第一の富豪――有野村の伊太夫が、また上方見物に名を仮りて国を出で、もはや、この地点近いところあたりまで来ているはず――ということは真実でした。
 がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵という、腕の一本ないやくざ者が、お蘭どのという淫婦の御機嫌を取るために、わざわざ危険を冒《おか》して飛騨の高山まで引返して、そこの芸妓《げいしゃ》に預けっ放しにして置いた大金を取りに戻って見ると、その芸妓は一昨日、宇津木兵馬という若い侍と共に駈落をしてしまったということ、出し抜かれて苦笑いのとどまらないがんりき[#「がんりき」に傍点]の百の野郎が、すごすごと舞い戻る途中、美濃の国の関ヶ原まで来ると、容体ありげな数人連れの旅の一行の者とすれすれになる途端、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百の野郎の頭にピンと
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