来た通りをあとへ戻させればいいのだ」
と言って、マドロスの方へ向き直って、物々しく白雲が言って聞かせることには、
「よし、では、ともかく貴様の縄だけは解いてやるから、舟を漕いでかえれ、先方へ着いての上で駒井氏の裁断だ、拙者は許すとも許さんとも言えん――とにかく、舟を漕ぐ間は縄をゆるめてやる――ゆるめてはやるが、こっちを甘く見るときかんぞ。いいか、途中で隙を見て、海へ飛び込んで逃げ出そうなどとしても駄目だぞ。いいか、この柳田君はな、なりかたちこそ小さいが、恐《こわ》いものを持っているぞ、これ見ろ、この長い刀をよく見ろ、伊達に差しているのではないぞ、抜けるのだぞ、抜けば斬るのだぞ、貴様のようなでぶ[#「でぶ」に傍点]といえども、芋を切るように真二つにこの刀で人が斬れるのだぞ、この人のなりかたちが小さいからって呑んでかかっちゃいかんぞよ。もし貴様が途中、穏かならぬ気振《けぶり》でもしようものなら、その瞬間に、そのでぶ[#「でぶ」に傍点]を二つに斬られてしまうのだ、おどかしではない、事実を言うのだ、よく見て置かっしゃい、あの長いのを――」
 田山白雲は、改めて柳田平治を、裏返し表返してマドロスに紹介して後、
「柳田君、後学のためだ、一つこの男に型を見せてやってくれまいか」
「よろしうござる」
 柳田平治は一方の板の間へしさったかと思うと、そこで電光石火の如く、居合を三本抜いて見せて、四本目に、あたりをちょっと見廻したが、そこに落ち散った黒い焼餅の一つを取ると、縛られたマドロスの頭の上に置き、二三歩踏みしさって、颯《さっ》と一刀を抜いたと見ると、
「ワアッ!」
 マドロスは目がくらんで絶叫したが、マドロスの膝の前に二つになって落ちたのは、マドロスの自身の首ではなくて、今の焼餅でありました。
 そうすると、いつしか刀を鞘《さや》に納めていた柳田は、二つになって落ちた焼餅をまた拾い上げてマドロスの頭へ積み重ねたから、マドロスはとてもいい面《かお》をしませんでした。
 次の一本が電光石火、マドロスの頭で焼餅が今度は四つになって落ちたけれども、マドロスの赤い髪の毛は一筋だも傷つかないのです。

         三十

 十二分にマドロスの度胆を抜いてから、この厄介な駈落者を、柳田平治に託して送り出して置いて、田山白雲はひとり、この石小屋を占領しました。
 つまり、ここに炬燵《こたつ
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